はじめに
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GADHA理論入門編
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以下、加害者変容理論「信念編」を述べていきます。
ここまでの振り返り
「言動編」では「どういったことが加害なのか」ということを学んでいただけたかと思いますが、その加害的な言動の裏にはそれを支える「信念」が存在します。
この記事ではその「信念」についての詳細を解説します。
何故私たちは今まで加害的な言動をしてしまっていて、その言動が正しいと思っていたのでしょうか?
他者をケアするための情動調律をする場面では一度脇に置かなくてはならない価値観、これが加害の信念です。
そして新たに必要となった価値観こそがケアの信念ということです。
言動を支える信念というのは、皆さんが頭の中で呟いているセルフトークに近いものです。
「いちいち説明しなくてもわかるだろう」
「俺の言うことを素直に聞け、馬鹿にしているのか」
「舐められたら負けだ」
「弱音を吐いてはならない」
「完璧でなくては」
他者と接するとき、頭の中にこういった内容が浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
このように様々な信念が奥にあるために、自分の言動、言動の前にある思考、その思考が発生する元になる感情、すべてに影響しているのです。
下記はその信念が言動に対してどのようにして影響するのかをシステム思考に基づいて表した図です。
(ふたつの図についての詳しい解説は「規範編」を参照)
同じようなことが起きても、加害的な考え方を持っていなければ傷つかない、怒りが発生しないのです。
実は感情というのは、信念よりも後にあるものです。
こういった信念がどのようにして身についていくのか、ということに関しては次回「構造編」に記述しますが、その要因は生まれ育った環境にあると考えられます。
今回はその「信念」に焦点を合わせて考えていきます。
加害的な言動を裏打ちする「信念」とは?
全ての言動や思考の後ろには必ず信念が存在します。ここからは加害的な信念について具体的なものをいくつか解説していきましょう。
まず例として、「相手の感じ方が間違っている」という世界の捉え方があります。
その典型として、「大げさ」であるという表現が挙げられます。
とても重要なことなのですが、感じ方に「大げさ」というのは存在しません。
その人がそのように感じていることはそのまま理解するしかないので、それに対して「大げさだ」「過剰だ」「傷つきやすい」「考えすぎだ」ということは有り得ません。
その人が現実にそう感じている、その事実から始めるほかないのです。
その点において、加害的な考え方では「相手の感じ方が間違っており、自分の方が現実をよくわかっている」という信念があるわけです。
ある現象について、自分はそれに対する適切な反応を相手よりもよくわかっているのだという考えです。これは加害の信念で最もわかりやすい例のひとつと言えます。
次に挙げられるのが、「お前は自分のための道具である」というものです。
この中には相手の存在を尊重するような立場はなく、自分にとって相手がどのように有効かという基準でしか他者を見ていません。
表出する言動としては「役に立て」「役立たずだ」というものがあります。
「家事もできないような役立たずはこの家に必要ない」とまで言う加害者もいるでしょう。
「道具である」という考え方がなければ、こういった言動は有り得ません。
「役に立て」という言動の裏にはこれだけ強烈な加害性があるのです。
3つ目は「パートナーなら分かってくれて当然だ」という”甘え”です。
「分かってくれて当然なはずなのに、なんで分かってくれないんだ」という考え方が人を傷つけてしまったり、期待をしすぎることで逆に自分ががっかりしてしまう。
それを心理学では「甘えの構造」と言います。
代表的な例を3つ挙げましたが、この中にはひとつも「間違っている」ものはありません。
なぜなら、そのように感じる皆さんの信念は「間違っている」「正しい」という対象ではないからです。
間違ってはいなくても、そのように感じ、そのように考える故に人を傷つけてしまうのです。
けれども裏を返すと、この考え方をケアの信念に変えることができれば人をケアすることもできるのです。
「人には感情があるのだから、自分にその理由がわからなくとも尊重することはできる」
「相手の行動には相手なりの理由がある」
「感じ方や考え方を共有されることは嬉しいことなのだ」
「テレパシーができるわけではないのだから、わかって当たり前と思わずにきちんと言葉にしよう」
そういった考え方になれば、加害からケアへと言動を変えていくことができます。
「信念」とは「内面化された他者の声」
ここで皆さんに、いくつかの質問があります。
そのような信念は、自分ひとりが持っているものですか?
いつからそれを身につけたと感じますか?
家族や職場など、周りにも同じような考えをもつ人はいますか?あるいはいましたか?
そのような考え方は男女差から生まれるもの、だから男性がそういった考えを持つのは仕方がないと言う人もいますが、そのように単純な話ではありません。
男だからそのような考え方だという訳ではなく、男らしさを男が要求される社会で、男がそれを学習し身につけてしまっているのです。
(女性の加害者もいます。「男らしさ」とはある関係における「強者」が持つべきだとされるという点で、極めて社会的な概念で、かつ男女差別的な言葉だと言えますが、ここでは一旦深追いしません)
例えば男性学では以下のように、
「人よりも優れていることが男らしさである」
「人より多くを持っていることが男らしさである」
というようなものが「男らしさ」を捉える考え方として分析されています。
そのように社会で身に付いてしまう「男らしさ」という概念は、ほぼ加害の信念体系と一致します。
そのような性質がある故に、とても気をつけて取り扱わなければなりません。
多くの人が身につけてきてしまったものを如何にして手放していくのか、そこが重要な点です。
職場で身につけてしまう加害的な信念の中には「上下関係」や「権力志向」が色濃く反映されているものが多く、「下請け」という言葉もそのひとつです。
「下請け」という言葉が日常的に使われるような業界に属していると、自分自身も誰かの下請けであり、自分もまた誰かを下請けにしている状態です。
そこには「権力」というものが剥き出しに表れています。
そういった環境にいると加害的な信念体系に染まってしまうことが避けられない部分があります。
ただ、家庭は全くそのようなシステムに属さない場であるのにも関わらず、家庭でもそのように振る舞うことで、家庭を加害のシステムに組み込んでしまうと加害が生じます。
そうしてしまうことで、パートナーやお子さんをとても酷く傷つけてしまうという状態は非常によくある加害です。
このように、信念とは環境によって身につけてきてしまうものなのです。
言い換えれば、信念というのは内面化された他者の声と考えられます。
つまり、生まれたばかりの赤ちゃんの時には持っていません。
生まれ育ち様々な人たちと生きていく中で、仕方なく身につけてきたものなのです。
最初は順番など気にしていなくても、偏差値や身長、足の速さ、様々な事柄で順位を強調する社会に属し、そうした側面を知ることを通して「ならばその順位の中で勝たなくてはならない」「その社会の中で力を持たないと生きていくのが辛いものなのだ」という考えを刷り込まれてしまうのです。
「何かにおいて人より良い部分を持っていなければならない」という社会にいるが故に、そのような考え方を持つようになるのです。
この考え方は恐怖によるモチベーションによって植え付けられたものです。
もしもケアの信念体系が広がっている社会であれば、その「良い部分」に対する価値観自体がかなり変わってきます。
ケアの社会においての「人の良い部分」とは、ひとりひとりが持っている美徳、生まれ持った個性のことです。
それらをポジティブに発揮していくためには自分自身の喜びに基づくモチベーションによる努力が必要です。
誰かと競うことも、誰に強制されることもなく、強迫観念によるものでも、自己否定を伴うものでもない。
それによって自分自身が幸福を感じられるようなモチベーションに基づく努力です。
おそらく皆さんは、そういったモチベーションが存在することを信じられないのではありませんか?
「競争をしなくなれば頑張ることができないのでは?」「自己否定を伴わない努力なんてあるのだろうか」と思うでしょう。
これまで努力によって成果を出してきた人ほど、ここに書かれていることを素直に受け止めるのは難しいです。よくスタートアップの代表や起業家と話していると、ここが一番受け止めづらいところだと実感します。
なぜならそういった人にとっては、今までの人生においての成果というのは恐怖に基づいた努力によって成し遂げてきたことだからです。
けれども、それが役に立つ場面もあれば、役に立たない場面もあります。
いつでも常に唯一正しい答えというのは存在しません。
状況に応じ、年代に応じ、関係に応じて、様々な良いやり方があるという事実に自分を開いていく、ということがとても大切です。
それなのに、私達はその子供のときに見つけてしまった「他者の声」に振り回されているのです。
「優れなければ」
「誰かを支配しなければ」
「上に立たなければ」
そういった「声」を内面に持ち、そしてそれを実行することによって、まさに私たちはパートナーや家族を傷つけています。
あるいは同僚や友人をも傷つけ、周りの人を自分から離れていくようにしてしまい、自分自身を誰よりも孤独に、不幸にしているのです。
私たちはこの「育ってきた中で身につけてきた他者の声」をいかに引き剥がしていけば良いのでしょうか。
「これは本当に自分の声だっただろうか」と、自分の中から一度外に出して考えてみると「もともとは自分の親が言っていたことじゃないか」「先輩がやっていたことではないか」と、その信念が他者の声であることに気付けるかもしれません。
あなたはそれを採用するかどうかを自分で決めて良いのです。
「会社ではこの考え方を採用するしかないけれど、少なくとも家庭においてはこれを持ち込まないようにしよう」といった形で、信念を付けたり剥がしたりできるものと捉えることができれば、生き方というものは根本的に変わります。
そしてその捉えかたをすることで、より多くの人と共に生きていけるようにもなると思います。
「加害的な信念」を自分から手放すには?
上記の内容では「信念とは何か」「それを私たちがどのようにして身につけてきたのか」を記してきましたが、ここで何故信念について掘り下げているのかを改めて述べます。
「規範編」でも記述したように、私たちが起こしている加害の言動という「出来事」は、常にシステムという大きな構造の中にあると捉えられます。
その全体像を分析するための「システム思考」がこちらの氷山モデルに示されています。
それに基づいて考えると、加害をしたという出来事は「加害をしないようにしよう」と思ったとしても解決しません。
そのように表層的なアプローチを考えるのではなく、そもそもどんな状況で加害をしてしまうパターンになるのか?
その状況というのが何故繰り返し起きてしまうのか、そこにはどのような構造があるのか?
そして、その繰り返し起きることをどこかで許容しているという自分の中の根本的な世界の価値観がどこにあるのか?
そのように、システムの下の方に潜れば潜るほど深いレベルでの問題解決ができるのです。
そうすると根本的に加害の再発を防ぐことが可能になります。
そういった理由からここでは信念について解説しています。
システムの中の「加害の言動」はこの出来事の部分にあたります。
今焦点を合わせているのはそのさらに下、価値観や信念の深さにまで潜った部分です。
そちらを体系的に捉え、「加害の信念体系」と「ケアの信念体系」に分けるとこのような形になります。
中心の列の内容を見ていくと、加害の信念体系というのはまさに「べき論」の世界です。
「べき」「ねば」「当然」「普通」「当たり前」といった言葉を頻繁に使う人は、「パートナーなんだから私の考えをわかって当然であり、当たり前にわかってほしい、むしろわかるべきである」と考えてしまったり、物事を常に「正しい」か「正しくない」かでジャッジし、「正しい方の言う事を聞くべきだ」という思考になったりします。
そういった世界観の中に生きる加害者は、被害者が自分の言うことを聞かないことに傷つきます。
人を従わせることが良いことだ、それが幸福なのだと考えているのですから、相手が言うことを聞かないと驚き、無力感を覚え、存在感の欠如を感じます。そしてそれを不幸だと捉えるのです。
加害者が「自分のほうが被害者なのではないか」という感情を持つことは非常によくありますが、それは加害の信念体系に骨の髄まで浸かってしまっているからなのです。
人を従わせることは良いことでも、幸福なことでもありません。
ケアの世界では「べき」も、「当然」も、「普通」も存在しないのです。
みんなそれぞれ違って、違うからこそわかろうとし、お互いをケアしようとする関係があるときに、相手が相手のままでいること、そして、自分が自分のままでいられることが、ただ存在価値としてこの世界にあるのです。
ケアの世界観では、自分を知ること、自分らしくあること、相手を知ること、相手らしくあること、それが幸福になります。
GADHAの理論では繰り返し述べていますが、幸福とは「自他共に、持続可能な形で、ケアしあい美徳を発揮できる関係の中に生きること」なのです。
唯一の、絶対的に正しいものなどなく、誰が相手であっても「正しさ」をもって感じ方や考え方を強制することはできません。
そして、他者とケアし合うためにできる範囲で努力をした結果、どうしてもお互いをケアすることができなかったとしたら、その両者は離れてもよいのです。
無理に関係を続ける必要もありません。そして、そのような状況で離れることは誰にとっても悪いことではありません。
お互いが生きていける範囲をそれぞれに見つけていくこともケアの働きに含まれるのです。
ケアの信念体系には攻撃がほとんど含まれません。それは何故かというと、無理に相手の行動を支配しようとしないからです。
相手をわかろうとすること、自分をわかってもらおうとすることしかできないのです。
そして、「わかってもらえて当然」だ、「わかって当然」だということはありえません。
なぜなら人は全員が異なる、ユニークな存在だからです。
加害者の中には頻繁に「怒る」という攻撃をしてしまう方も多いと思いますが、そのように「突然腹が立ってキレてしまう」ことに対しては、身についてしまっている加害的な感覚をいかにして溶かしていくかということが重要です。
「言動編」などでも述べていますが、その「キレないように感覚を変えていく」ことをパートナーとの関係で練習するのはとても困難です。
特に、加害が積み重なっている今の状態で一度ミスをしたとすると、相手にとっての傷つきはかなり大きく、深いものになってしまいます。
だからこそ、職場の関係や友人、GADHAの中でなど、被害者ではない他者が相手の、まだ比較的失敗しても衝撃が少ない環境の中で、加害的ではないコミュニケーションを試し続けることが大切です。
素振りのように何度もコミュニケーションを試し、間違えたときには考え直して修正をする。
その繰り返しの中で少しずつ、加害ではなくケアをするという人との接し方が身についていくのです。
そしてその結果を受けて考え方、信念が変化します。
「そうか、こんな考え方をしていたから自分は腹が立っていたのだ」
「ああ、そんな考え方だから自分は不幸になっているのだな」
そう心から実感できた時に、以前の自分の愚かさに気づきます。
そのような信念を持っていたが故に、たくさんの人を傷つけてしまったことに気付くでしょう。恥や後悔、自責に苛まれると思います。
それと同時に、今からできることをするしかないということ、それが完璧ではないかもしれなくても、それでもひとつひとつを積み重ねていくしかないのだということを実感できます。
今は加害の最中にあるとしても、皆さんがその事実にたどり着く日が来ることを、私は心から願っています。
そして、そこにたどり着くために才能や生まれつきの優れた性質は必要ありません。
なぜならそれは、経験を積み重ねることで身につく能力だからです。
生まれ育った環境で加害を身に着けてしまったなら、今度はケアを身につけるための経験が生まれるような環境を自分で作ってみませんか。それは自分からできることなのです。
そしてGADHAは、ケアを身につける経験が日々生まれている環境です。
この記事を読んでいる人は、少なくともGADHAにかなり大きな関心を寄せてくださっている方でしょう。加害者である自覚をし、変容に取り組む方がほとんどだと思います。
その強い気持ちがなければ、労力を割き、時間も使って、ここまで読み進めることはできなかったのではないでしょうか。
それは変容のために自分から起こした行動に他なりません。
その行動自体が、自分がケアを身につける経験を作るための環境を、自分自身で作ることに繋がります。それはとても貴重な、自分自身の能動的な行為によって生まれている機会なのです。
変わるということは本当に大変なことですが、自分でできることは本当にたくさんあります。そのひとつひとつを一緒に積み重ねていきましょう。
終わりに
「信念編 前編」を手に取っていただき、ここまでをお読みいただけたことに心からの感謝を表したいと思います。
この「終わりに」までたどり着いてくださった皆さんの並大抵ではない熱意を感じます。本当にありがとうございます。
「自分は精一杯努力して正しく生きてきたはずで、その良さをパートナーに伝えたいだけなのに、何故目の前のこの人はこんなに悲しんでいるのだろう」
そう思っていた方も、この信念編を読み終わった頃にはその理由を少しずつ理解することができるのではないかと思います。
後編では「正しさがひとつしかない一元的な世界観」と「ケアの信念体系で重んじる多元的な世界観」の違いについても解説していきますので、ぜひお読みいただければと思います。
次は『信念』後編をこちらからご覧下さい。
ここまでの内容についてさらに学びたい、実践的な内容にも取り組みたいと思っていただけた方にはGADHAチームslackや加害当事者会、加害者変容プログラムもご用意していますので、参加希望のご連絡を心よりお待ちしております。
GADHA理論入門編
クレジット
本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。
動画編集:匿名
文字起し:トンボ(@10_n_bo)
執筆 :春野 こかげ (@d_kju2)
責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)