『信念』後編「ケアを生み出すための世界観とはなんですか?」

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はじめに

この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラム内レクチャー、ホームワークなどの「実践」が重要になります。

 

これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。

 

信念編(前編)では「信念とは何か」「それを変えるためには何をすればよいのか」を記しましたが、後編では今加害的な信念を身に着けている私たちは新たに何を目指していけば良いのか、そちらを記述していきます。 

GADHA理論入門編

これらのコンテンツは元々有償で提供していたものです。しかし、1.より多くの潜在的加害者に低いハードルでアクセスしてもらうこと、2.活動の透明性を高めて他の組織・活動と比較してから参加してもらえるようにすることを目的に、オープンアクセスにしています。

オープンアクセスにするということはGADHAの活動の持続可能性を下げるということです。そこで、マンスリーサポーター(MS)の方々を募り、応援してくださる方が増えるほどオープンアクセスコンテンツを増やすという仕組みを取り入れています。

つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。

 

「加害的な世界」と「ケアの世界」の違いとは

 前編の後半までで「加害的な信念を手放すために何をするのか」をお話してきましたが、改めて「加害的な世界観」と「ケアの世界観」の違いをイメージも交えながら解説していきます。

 

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 加害的な信念の大部分は、一元論的な世界観によって成り立っています

 

一元論的な世界観というのは、上記の図で示すようにふたつの属性を持っています。

 

そのひとつが左側、上下世界観です。「縦割り」という言葉もここに当てはまります。

 

「上」の人間が「下」の人間に忖度させる、何も依頼をせずとも察してケアをさせ、その労力を搾取する仕組みができています。

つまり、「上」はケアをされるが「下」にはケアをしない構造です。

 

加害者の家族はこのような関係で固められている場合がほとんどです。

典型的な男尊女卑、家父長制が根強い家庭で育った方も多いのではないでしょうか。

 

そして、恐らくは職場でも上下関係が厳しい関係に身を置いていると思われます。

前半でも例に挙げた「下請け」という仕組みのように、会社や業界の仕組み自体が上下関係で成り立っている場合、人間関係もそうなることを避けられません。

 

そういった中では、上から奪われたものは、下から奪って補うしかありません

 

その搾取構造の一番下にいる人たちは、奪われるばかりです。沈殿した苦しみを最下層に置かれた者だけが背負わされるのです。

 

それを背負わされた人たちが、この状態のまま生きていくことはできません

だからその関係から距離を取る、離れることしかできないのです。

もしくは我慢し続けて体や精神を蝕まれ、壊れていきます

 

私たちのパートナーである被害者の方々は、鬱になってしまう人が多いです。

それは私たちが被害者を傷つけているからに他なりません。

私たちがパートナーを鬱にしているのです。

 

そして、一元論的な世界観には図の右側のようにもうひとつのパターンがあります。

 

世界を上下で捉えてはいませんが、その代わりに中心と周辺という概念を用いています。例えば、「正しい」か「正しくない」かで世界を見ており、「正しい」方が偉い、「正しくない」方は間違っていると捉えます。

 

偉い方は中心に、偉くない方はその円の外側にいます。中心に近づくほど「正しい」ので「偉い」と考え、自分はできるだけその中心にいることで「正しさ」と一体化しようという理想像があります。

 

この考え方は、多元性というものが一切抜け落ちている思考です。

「正しい」か「間違っている」か、そのひとつの尺度でしか物事を測ることができないのですから。

 

現実の世界には、「正しい」「間違っている」以外に「異なる」ということがあります

 

異なる正しさ、異なる価値があるという見方に基づくと、その「円」はとてつもなく大量にあ存在します。

次の図を参照してください。

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その「異なる正しさ」「異なる価値」が大量に存在するイメージがこちらです。

 

色も大きさも違えば、形も様々なものがあるかもしれません。個人の中にも世界の中にも、異なるものが同時に存在している、多元性がある、というのがケアの信念体系の最も根本的な考え方です。

 

皆さんにも、私の中にも、それぞれの素晴らしさ、たくましさ、強さ、頼りになる部分、役に立つ特技、優れている長所、たくさんのものがあると思います。

 

同時に、弱さもあるのです。

 

みっともない、ずるい、恥ずかしいところも、至らないところもある。

苦手で、人に言われてもうまくできないこともあるでしょう。

 

「強さ」も「弱さ」も、「長所」も「短所」も、「誇れること」も「恥ずかしいこと」も、様々な相反するものが両方存在するのです。人間は、根本的に矛盾を含んだ存在です。

 

自分のことでさえ多元的で、一言では述べられない存在だと認めることは、他者もまたそういった矛盾を孕んだ存在だと理解することでもあります。

 

目の前の相手にはこんなに素晴らしいところも、何かができないところもある。

とても優しいこともあれば、時に薄情な時もある。

辛いときには誰かを責めてしまうこともあるけれど、心から誰かを大切にしたいとも思っている。

 

目の前にいるパートナーは、そういった相反する、矛盾を含んだ他者なのです。

人は誰もが、100%相手の思い通りになることなどできません。

完璧な存在にはなれないのです。

 

けれどもその中で、こうした複雑で、矛盾を抱えた私たちとして一緒に生きていくことは不可能なことではありません

 

世界の多元性についても同じことが言えます。

この世の中には様々な正しさがあり、異なる良さというものがあり、異なる故にそれぞれが矛盾して存在しています。

 

矛盾しているこの世界の、その矛盾こそが現実であるということです。

 

この現実を理解することができないと、「それは間違っているからこうするべき」「この正しさの方がより良いものだ、だからこの価値観をこの世界の全てに浸透させたい」というように考え始めてしまいます。

 

現実世界の多元性を許せなくなってしまうと、自分と違う考えを持つ人を許せなくなってしまうのです。それこそが加害に繋がる思考です。

 

自分の持つ考え方と違うものを許さないことは暴力です。どんなに素晴らしいと思える考え方でも、相手が間違っているとし、押し付けようとし始めた瞬間から、加害になってしまうのです。

 

その暴力性をなくしたいからこそ、GADHAでは基本的に「相談をされない限りは応答しない」という姿勢をとっています。

 

SNSでどんなに加害的な人を見つけたとしても、こちらから「それは間違っている」と言うことはありません。それを言うことにほとんど意味が無いからです。

 

学びたい、変わりたいと思った時の受け皿として常にGADHAを用意していますし、広報で広く社会に対しての発信をしています。

 

けれども、考えが合わない、学びたいと思えない人に「お前のそれは間違っている」「これを学ぶべきだ」ということは言わないようにしています。

 

上記のような理由から、有償のプログラムでも初回でGADHAの理論に違和感を感じられたときには参加を中止できる仕組みをとっています。中止した場合の費用はかかりません。

 

仲間とコミュニケーションを取り、知識やケアの交換をする場であるGADHAチームslackを完全に無料で開放しているのも同じ理由です。

 

「確かな信念を持つ」ことと、「相手にその信念を無理やり押し付ける」ことは全く異なる行いですので、加害者変容のためにあるGADHAの活動が加害的になってしまうことがないように、その違いを注意深く意識しています。

 

そして、確かな信念を持っていたとしても、それによって相手を傷つけてしまったとしたら、その傷つきを認め、その信念が間違っていることを自覚し、自分を変えていくということもまた確かさなのです。それは「しなやかな確かさ」と言えるでしょう。

 

私はGADHAの理論をかなりきちんと整えているつもりですが、それでもやはり間違えてしまうこともありますし、新しいことを学んで知ったときに、完璧だと思っていたGADHAの理論に全く足りていない部分があることも痛感します。

 

そういったときに、完璧ではないことをどれだけ素直に認められるのかが大切なのだと思っています。

 

たとえ悔しくとも、自分の知らないこと、限界、不完全さ、不十分さ、そういうものを認めることを拒絶しないように心がけています。

 

なぜならそれは、GADHAの理論がより多くの人に届いてほしいですし、ひとりでも多くの人がこのケアの世界の中で生きられるようになってほしいからです。

 

「ケアの世界で生きてほしい」というこの考え方が間違いを認めないわけがないのです。

相手が傷つきを訴えたときにはそれを認めて変わろうとすることがケアなのですから。

 

皆さんもこれから、変容の中で新しい「自分なりの信念」を持っていくと思います。

 

もうすでに持っている信念が「目指しているものと違う」と思えたときに、素直にそれを認め変わっていけるかどうか。

それが本当の確かさであり、しなやかさでもあると思います。

 

結局の所「多元性を認める」ということは、「みんな違う、矛盾しているのだから全部どうでもいい、確かなものなどない」ということ(いわゆる安易な相対主義)ではありません。

「自分なりの確かなもの」を少しずつでも作り、「他者と生きる上で自分はこう生きていきたい」という信念を持つことであり、それは多元性とは矛盾しません。

 

けれども、自分の間違いを認めないのであれば、それは多元性とは矛盾します

これはとても大切な考え方です。

 

多元性とは決して「みんなが違うのだから、たとえ加害者だとしてもそうして生きていくしかないのだ」という意味ではないのです。

 

「みんなの違いを認め合う」なんて、綺麗事を言っているだけなのではないかと思うかたもいらっしゃると思います。

 

その疑問に対して簡潔にお答えしましょう。

ケアの信念体系は綺麗事でも何でもありません

 

私たちが異なる他者と幸せに暮らしていくための情動調律や共同解釈をするための前提、土台となる信念体系、これがケアの信念体系です。

 

いわゆる人権や多様性、ダイバーシティといったものと言葉が似ているので、綺麗ごとのように聞こえるかもしれませんが、そもそもそれらの概念自体、人類が必死で積み重ねてきた、他者と生きていくための信念体系なのです。

 

では、これらの信念体系はどこからやってくるのか?そして、加害者である私たちはどのように生きていけばいいのか?

ここまでを学んだことで、そのような疑問が浮かんできたのではないでしょうか。

 

私たちの中にはまさに、親をはじめとした、職場、同僚、友人など様々な他者から受け取ってきたものが色濃く染み付いているのです。

その上で、私たちがどのようにして生きていけばいいのか?

その内容を次回「構造編」でお話していきます。

 

加害的な世界から抜け出すために、変えなくてはいけないのは何か?

それを考えるために現状の自分が持っている信念を理解することは非常に重要です。

 終わりに

「加害者変容理論 信念編」までの内容をお読みいただき、本当にありがとうございます。

 

回を重ねるごとに内容も深く、情報量も大きくなり、そこについてきてくださっている皆さんの熱意に感服する気持ちがどんどん大きくなっていきます。本当にお疲れさまです。

 

「信念編」を学んで、これまで何十年も積み重ね染み付いてきた加害的な信念を手放さなければならないことを思うと途方に暮れてしまった、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

それをケアの信念に変えていくということもまた、とてつもなく高い壁のように思えたかもしれません。

 

けれどもGADHAに参加するたくさんの人たちが、その途方もなく高い壁を越えようと日々あがいています。

皆悩み苦しんで、途方に暮れて、投げ出したくなって、そんな中変容に向き合い、少しずつ変わっているという実感に幸福や達成感を見い出しながら今を生き延びているのです。

 

今この知識を手に入れただけでは、共に変容に取り組む仲間がいることは実感できません。

その知識を元にしたとしても、孤独に変容に取り組むことで実践に移せることはそう多くありません。

 

そのような仲間と共に生きている実感を、今孤独になってしまったあなたにも味わっていただきたいのです。

 

GADHAは加害者変容に取り組むとともに、そのような場所でもありたいと思っています。

 

ここまでの内容についてさらに学びたい、実践的な内容にも取り組みたいと思っていただけた方にはGADHAチームslack加害当事者会加害者変容プログラムもご用意していますので、参加希望のご連絡を心よりお待ちしております。

GADHA理論入門編

 

クレジット

本記事は「変わりたいと願う加害者」の集まりであるGADHAメンバーの協力を得て作成しています。お力添えに深く感謝します。

動画編集:匿名

文字起し:トンボ(@10_n_bo

執筆  :春野 こかげ (@d_kju2)

責任者 :えいなか (@Ei_Naka_GADHA)