『幸福編B』「競合する異なる幸福概念をなぜ採用しないか」

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はじめに

この記述はあくまでも形式的な知識であり、加害者変容には共に学び変わっていく「仲間」との相互協力、プログラム内ホームワークなどの「実践」が重要になります。

これらなくして変容に取り組むことは容易ではありませんので、主催者を含むメンバー同士の知識とケアを交換する場であるGADHAチームslack(無料)への参加、個別の質疑応答や実践的な内容を含む加害者変容プログラム(有償)への参加を強く推奨いたします。

GADHA理論入門編

これらのコンテンツは元々有償で提供していたものです。しかし、1.より多くの潜在的加害者に低いハードルでアクセスしてもらうこと、2.活動の透明性を高めて他の組織・活動と比較してから参加してもらえるようにすることを目的に、オープンアクセスにしています。

オープンアクセスにするということはGADHAの活動の持続可能性を下げるということです。そこで、マンスリーサポーター(MS)の方々を募り、応援してくださる方が増えるほどオープンアクセスコンテンツを増やすという仕組みを取り入れています。

つまり、このコンテンツはMSの方々の協力により誰でも閲覧可能になっています。心より感謝申し上げます。GADHAを応援したい方、理論を知りたい方、恩送りをしたい方などはぜひマンスリーサポーター制度をご覧ください。 

 

以下、加害者変容理論「幸福編(後編)」を述べていきます。

持続可能な「幸福」とは?

「幸福編」前編ではGADHAにおける「人間」と「幸福」について述べてきましたが、ここでは世界にはどのような方向から見た「幸福」があるのか考えてみましょう。

 

「幸福とは何か」と言う事については大きく三つの方向性で研究されています。

 

ひとつは実現型の幸福です。

成長と実現ができ、金銭的安定があり、心身の健康があり、豊かな人間関係がある、などです。

 

4〜6個ほどの要素があると言われることが多いのですが、何か一つ一つの要素を満たすことが幸福であるという、よく耳にするタイプのいわゆる幸福論です。こちらは昔から長い間言われているものかと思います。

 

続いてふたつめは没入型です。

この瞬間に没入し、今生きているという感覚を持つことが幸福だと考える立場があります。この没入型を実現型の要素に含める学派もあります。

 

「今ここに生きる」「マインドフルネス」「フロー」などの言葉で表現されるタイプの幸福です。

 

過去の後悔と未来の不安が無い状態、没入している感覚、これが幸福なのだとする立場があります。

 

そして3つ目が、受容型の幸福です。

 

ありのままの自分を受け容れるという幸福観。

これまでとこれからの変わりゆく、自分の強さだけではなく、弱さも含んだ存在自体を受容するというものが、受容型の幸福ということになります。

 

この3つの観点から「幸福」の反対、「不幸」を考えてみましょう。

 

実現型の立場から見ると、成長実現や金銭的安定、心身の健康、こういった「一般的に」良いとされるものが無い状態が「不幸」です。

 

没入型ですと、過去の後悔と未来の不安に苛まれている状態が「不幸」というふうに考えます。

 

受容型の場合、自分の弱さを受け容れられない状態が「不幸」だということになります。

 

ここまで述べてきたことから推測できるかと思いますが、GADHAでは受容型の幸福を採用します。

 

それは何故かというと、実現も没入も、常に成すことが絶対にできないからです。

 

まず第一に実現型というのは、理想を求め現実とのギャップを捉え変わり続けようとする、本質的に自己否定を伴う幸福観です。

 

それ故に、幸福であり続けることができない。自分を否定し続けなくては努力ができないからです。

 

みなさんも聞いたことがあるでしょうか、「上に上がれば上がるほど不幸になる」というような言葉を。

「金を稼げば幸せになると思っていた。だがそのようなことはなく、稼いだところで満たされることはなかった」というようなものです。

 

それは何故なのでしょうか。

その幸福観は根本的に自己否定の世界観だから、そして上には上がいるからです。

 

その世界観に生きている限り、永遠に安心することは出来ません。どこまで行っても、失うことの恐怖は残るからです。もっと上が出てくるかもしれないことが恐ろしいからです。

 

そして、没入型もまた持続不可能です。

 

過去の後悔も未来の不安も避け続けることはできません。

人は生きていく限り様々な問題と出逢います。その時に、不安や後悔が生じるのは自然なことです。それを無いものとするのは、ほとんど不可能だと思います。

 

だからこそ、人は皆不完全であることから逃げ出せない。これは間違いのない事実なのです。

 

人は不完全であるというその事実から、幸福を考え始めてみることができないでしょうか。

 

すると不幸とはつまり、自分の傷つき、弱さ、不完全さ、そういったニーズを受け入れられないことだと考えることができます。そしてそこから幸福を理解することも可能なわけです。

 

幸福とは自分の傷つき、弱さ、不完全さを受け容れて生きることなのです。

 

自分は完璧ではない。

いつでもたくましい人でも、常に強い人でもない。変わらず上に立てる人でも、どんなときにも頼もしい人でもない。

 

そして、それが自然なことなのである、と理解するということです。

 

これを読んでいる中の多くの人は、上に立たなければ、偉くならなければ、なめられないようにしなければというふうに思って生きてきたのではないでしょうか。

けれども、なめられる時も、傷つく時も、うまくいかない時も当然にあります。そのような自分と生きていくということが大切なのです。

「受容型の幸福観」に基づいたケアとは?

ここまで述べてきた「受容型の幸福観」に基づいた「ケア」を考えてみましょう。

 

その価値観に基づくと、相手にニーズがあることを認めることからケアが始まります。

 

感覚や思考に間違いがない、故にニーズに間違いはないので「普通そうは考えない」「ポジティブに考えたらそうはならないのではないか」とは言えないのです。相手の傷つきはそのままそこにあるものだからです。

 

皆さんにおいてもそれは当てはまります。

「悔しい」「恥ずかしい」「死んだらいい」「生きていたくない」そう思った時、その気持ちは誰にも否定されないものなのです。

 

死ぬほど苦しいという感情がそこにあることは、そのままその通り、変えようのない事実なのです。今、死ぬほど苦しいのです。

 

けれども、これを読んでいる中の少なくない人の脳内では、おそらくこのような声が響いていると思います。

 

「もっと頑張れ」「負けるな」「恥ずかしい」「もっとできることはないか」「格好悪い」「だらしない」……

 

そういった言葉を自分にも向けた時、自分にもニーズ、傷つきがあることを認めることができなくなってしまうのです。すると、そのニーズに対してのケアをすることもできなくなってしまいます。

 

そのニーズの存在を受容し、できることを相手にすること。あるいは「やめてほしい」と言われたことをやめること、これがケアです。

 

ですから自分が相手のニーズを知った時に、それを受け取って尚何も変えていないのであれば、もう相手はニーズを言ってもくれなくなります。言っても無駄ですから。しかも多くの場合、さらに傷つけられるからです。

 

「そんな風に感じる方がおかしい」「大したことではないだろう」などと言われ、ニーズの存在、自分自身の存在までもを否定され、何もしてくれないどころか傷つけられる。

 

すると相手は傷つき、もう何も言ってはくれなくなるのです。

 

この状態、実は皆さんの中でも同じことが起きているかもしれません。

 

自分の中の「傷ついている」「今自分は死ぬほど苦しい」そういった声に応答せずに「そんなんじゃだめだ、止まるな、もっと頑張れ、努力がないなら死も同然だ」そう自分を追い込んでいる。

 

それは本当に苦しいことです。自分が悲鳴をあげることすらできない、弱音を吐くことすらできない状態になってしまうのです。

 

鬱状態とよく言われるのはこのような状態だと考えます。もう自分を助けることさえも自分ではできなくなってしまっているのです。

 

それは何故なのかというと「自分の傷つきを認め、自分のことをケアする」ということに失敗し続けてきたからです。

 

ですからGADHAでは、皆さんが自分自身をケアできるようにしていくことも非常に重要なゴールになります。

 

そして最後は、特に他者に関連することです。

 

自分がどう思ってやったことであろうと、相手がそれを「ケアされた」と認識しないと意味がありません。

 

独りよがりで自分勝手なケアというのは、定義上ケアではありません

 

ですから、「ケアをケアとして受け取ってもらえるようにすること」も、ケアの中に含まれるのです。

 

これを間違えると「俺はせっかく代わりにやってやったのに何故喜ばないのだ」と言ってしまうということが起こりうるわけです。

 

それは「やってやった」のではありません。根本的に失敗しているということです。何もできていません。むしろ傷つけています。

 

相手が傷つき、それを受け止められなかったことを認め、そこからまた始めるということが「ケア」であり「愛すること」なのです。

 

そして繰り返しになりますが、このことが相互にできない状態である故に、関係が継続できず孤独になるのです。

 

ほとんどの場合、皆さんのパートナーの方はもともとケアをしてくれていたのだと思います。

自分が相手にケアできなかったが故に、今関係が継続できず、孤独になっていると思われます。

 

「自分は強い」「正しい人間だ」と思っている人は自分の傷つきを認めることができないので、そのニーズをイライラや怒りでしか表現できないのです。「傷つきや悲しみは、認め許したい不完全さである」と思うことができません。

 

そうすると相手のニーズ、傷つきも認めることができませんから、感じ方や考え方が間違っていて、正さなければならないと考えます。それ故に愛すことができないのです。

 

そして自分のニーズを認めないので依頼もできない。故に相手からケアを受け取ることもできない

 

自分の望むケアが得られなかった時に「こういう風にしてくれないかな」「この言い方は傷ついたから今度からこういう風にしてもらえると嬉しい」ではなく、「お前は何故こういうやり方をするのだ」「間違っている」「おかしい」「お前は本当に役立たずだ」などと言うことすらある。

 

そんな言葉を投げつける相手にケアができるわけがないのです。

 

ニーズを認めないということはケアの依頼をしないことです。依頼をしないのにケアを求めているので、相手に忖度させるのです。言わないのにやらせるのです。察しろと求めるのです。

忖度させている故に「頼んでもいないのに勝手にやってくれていただけではないか」と言うわけです。

 

相手はケアをして当然であって、ケアをしないと怒り、やってくれたことへの感謝もしません。忖度させているからです。この背景には上下関係なども存在します。

 

そして繰り返しますが、このような人は「自分が与えたものは正しいので喜ぶべき」と考え、感謝されないと相手を責めます。

 

これらは全て自分と他者の傷つき、今傷つきがそこにあるという現実から世界を構成することができないという点において、加害者はもはや現実の人間関係ではなく空想の世界に生きています

 

これは一緒に生きている人間からすると相当苦しいことです。

一緒に生きているはずなのに、自分を見られていないと感じるからです。

 

愛とは交換することによって増える非常に稀有な財です。奪い合いではない非常に珍しい財です。

 

その特殊な性質を持った財というのは、私の知る限りでは、愛の他に知識以外ありません。

 

逆に言えば、交換しないと必ず枯渇します

ニーズのケアは存在の受容であり、それが得られない状態では存在の根源を揺るがすほどの不安と恐怖に襲われます。それは死ぬほどの苦しみです。

 

そして加害者といるというのは、このような苦しみを常に味わっている状態です。

 

 

被害者の目線から語りましょう。

 

自分は相手にケアをしようとしているのに、相手はケアを受け取らないどころか、それを当然と捉え、ケアをしないと自分を責め、相手は自分にケアをしてくれない。なのに相手からの「独りよがりのケア」を喜ばないと責められ、見当違いな自己満足に感謝を強要される。

 

長い間この状態が続くと、ケアが交換されないので愛が枯渇するのです。愛することができなくなっていくのです。

 

皆さんの中には「昔は優しかったパートナーが変わってしまった」と思う人がいるかもしれません。

 

それは愛が尽きたということです。

人を気遣う、ケアするという、人間が持つ素晴らしい美徳を、我々加害者が奪ったのです。

 

それは加害の中でも最も罪深いものの一つです。

自分が奪ってしまったにもかかわらず「昔は優しかったのに変わってしまったから」などと呑気なことを言っていると、当然ながら関係が終了します。

 

その原因が自分だということを誰も教えてはくれません。けれどもそれは事実なのです。

 

端的に言って、加害者といることは不幸です。故に被害者は離れます。そしてそれによって加害者は不幸になります。

 

加害者は自他ともに不幸にしてしまうということです。

愛するという「賭け」、そこにある責任

被害者の、そして自分自身の美徳をも奪い、今孤独になろうとしている加害者にできることは何なのでしょう。

 

それは紛れもなく、愛することに他なりません。

 

愛することは賭けです。相手から返ってこないかもしれなくても、自分からケアを始めることですから。

 

そして私たちがケアを返さないことで、被害者をその賭けに負けさせ続けてきました。

 

被害者はもう、分の悪い賭けは諦めて、違う人生を歩み始めようとしています。別れることも視野に入っているでしょう。既に別れたと思っている人もいると思います。

 

今、私たちがその賭けに出る時です。

 

すでに相手は愛の交換を諦めて、関係の舞台から降りている場合もあります。

 

当然ながら、もっと早く自分が応じていれば、関係はより良くなりやすかったでしょう。それは間違いようのない事実です。

 

つまり、自分が今変容し賭けに出ても、分が悪い賭けですから、失敗して傷つく可能性が高いのです。

「もう遅いのではないか」「変わっても意味がないのではないか」……そんな恐怖があると思います。

 

けれどもその恐怖を目の前にしてそれでも尚変わろうとすること以外に、一体どうやって加害者に変容の覚悟を示す術があるのでしょうか

 

これほどまでに相手を傷つけてきて、ことごとく賭けてくれた相手を負けさせつづけてきた人間が「自分が負けてしまうかもしれない、だから賭けるのはやめておこう」そのような姿勢をとることは、愛がないことです。愛することができないということに他なりません

 

気が遠くなるほどの永い間分の悪い賭けに出てくれていた、それでも自分を愛し続けようとしてくれていた人に、他にできることはないのです。

 

どのような時でも、今ここから始めることしかできないのです。

 

幸福に生きていきたいのなら、他者と幸せに生きていきたいのであれば、どんなときでも今から、ここからできることをやるしかないのです。その賭けの分がどれほど悪くても。

 

 

他者と生きていくなら背負う責任があります。「わからなさを前提としてわかろうとする」ことの責任です。

ニーズをケアして、間違っていたら、それを認めて学び直す。「愛するということ」の責任があるのです。

 

そしてそこには同時に、自分の弱さを認め、それを相手に伝え、適切にケアを依頼することができるようになることの責任も生じます。

 

多くの加害者は、ケアを暴力によって依頼するわけです。責めたり、攻撃したりして、自分の望む行動を取らせる。

 

それは怒りのようにも見えますが、その背景には傷つきがあるのです。

 

けれども傷つきを認めないが故に、独りよがりのケアは暴力的になり、傷つきを認めないが故に、依頼もしない、感謝もしないということになるわけです。

 

そのような状態ではなく、自分のニーズをケアしてもらえている時には感謝をし、その感謝から生まれるエネルギーを使うことで、自分もまた相手にケアをする。この交換の連鎖が続き、愛情が増えていくこと。

それが愛し合うということです。

 

人間の幸福とは愛し合うことにあるのです。

 

ニーズのケアを通し、解釈のズレによる傷つきのケアを通した存在の受容、人間存在の根源的な安心を与え合うこと。