本記事は映画「ウーマントーキング」についての批評記事となります。
注意事項
本記事は結末を含むネタバレを含んでいることをご承知おきください。
また、性的暴力について描かれた映画についての批評であり、フラッシュバックの可能性がありますのでご注意ください。
DVについても言及があり、同じくフラッシュバックの可能性がありますのでご注意ください。
あらすじ
公式サイトからの抜粋
2010 年、自給自足で生活するキリスト教一派の村で起きた連続レイプ事件。これまで女性たちはそれを「悪魔の仕業」「作り話」である、と男性たちによって否定されていたが、ある日それが実際に犯罪だったことが明らかになる。タイムリミットは男性たちが街へと出かけている2日間。緊迫感のなか、尊厳を奪われた彼女たちは自らの未来を懸けた話し合いを行う―。
ネタバレを含むあらすじ
女性たちは「何もしない(do nothing)」「留まって、戦う(stay and fight)」「去る(Leave)」の選択肢に対して投票を行い、後者2つに支持が集まる。コミュニティを代表する3つの家が集まって「女性たち全体の未来」を決める話し合いを行う。
男性たちへの怒り、諦め、子どもたちへの教育、暴力と赦しとは何か、さまざまな議論が行われた。最終的には「全ての女性、15歳以下の子ども達(男児を含む)」でコミュニティを離れることを決め、一部の男性はなんらかの条件の元、後から合流することを認める」という結論に至り、女性たちは男性たちが帰ってくる前に、夜明けと共にコミュニティを去る。
前提:なぜこの記事を書くのか
僕は「変わりたいと願うモラハラ・DV加害者」の自助グループ/セルフヘルプグループ/当事者団体GADHAを2021年4月に立ち上げて、今に至るまで活動を継続しています。
加害者はもちろん、被害者も含めて、たくさんの方とお話をしてきた中で、加害性、あるいはケアの欠如は、社会のあらゆる場面に見出すことができると感じています。
現実の事件や問題はもちろん、フィクションの中でもさまざまなそれを見出すことができます。そして、それについて話したい、と考えている方がたくさんいます。
現象を読み解く批評の視点には様々なものがあり「ああ、これはまさに自分が思っていたことだ」という出会いは、読み手の考えに言葉・輪郭が生まれる契機です。
いろいろな場所で文章を書く中で「これこそまさに自分がずっと抱えていた違和感だった、それにようやく言葉を見つけることができた」と感想をいただくことがあります。
特に、モラハラ・DVの文脈においては「自分は傷つけられてきたんだ、そしてそれは怒っていいし、悲しんでいいし、許さなくていいことなのだ」という気づきであったり、
逆に「これが加害なんだとしたら、間違いなく自分はこれまで人に加害してきた。一体そんな自分はこれからどう生きていけば良いのだろうか?」という気づきであったりします。
さらには「こういう理由で、この現象は起きていたのか」と構造に気づいたり、因果関係を知ることによって、楽になる人もいれば、次に進む選択肢が増える人もいます。
言葉を持つということ。それは、世界を捉えるレンズが増えるということ。起きていることを理解し、この私がどうやってこれからを生きていくかを考えるヒントが増えるということです。
この記事は、僕自身が作品と出会うことによって生じた感覚、感情、思考を丁寧に整理することで考えを深めると共に、読んでくださった方と世界を共有し、対話を深め、より豊かに世界を理解することを目標に執筆します。
最終的な目的は、この社会から加害が減り、ケアが溢れる関係の多い社会を目指すことにあります。
はじめに:本記事で取り上げられない重要な点
本作を捉えるさまざまな視点があるが、本記事の中心的なテーマは「許す」「戦う」「逃げる」「離れる」「赦す」である。そのため、それ以外の視点についてははじめに簡潔に触れるにとどめる。
まず、本作の極めて重要な特徴は、性暴力の場面を一切描かない点にある。家畜用の麻酔スプレーによって一家全員を昏睡状態に陥れた上で行う凶行それ自体は描かれない。それはある種のオーディエンスの興味や関心を決して満たさないことであり、ある種のオーディエンスのフラッシュバックのリスクを減らすことを意味している。本作が誰のためにあるのか、ということを十分に考えた上での演出であることが即座に理解できる。
また本作は明確にフィクショナルな状況を描いている。加害者たちが捕まったからといって、その保釈のために「男性全員」で出ていく必然性は全くない。大事なことは、あの話し合いの場に男性がいないということ。男性は意思決定の場から完全に排除され、彼女たちの話し合いに介入することはできない。それは現実の意思決定プロセスにおいて排除されることの多い女性たちを考えれば、ミラーリングとしての表現であることは明確だ。女性たちが、女性たちのことについて、女性たちのために話し合いが行われる(女性であることをやめたと表現されるメルヴィンの存在も極めて示唆的だが、本記事では取り上げない)。
このような女性中心的な視点は、小説とのギャップにもなっている。原作では、議事録を担当したオーガスタによる語りという表現になっているそうだ。作中、女性たちは教育にアクセスできず、識字能力がないため、記録を残すためにも男性の力を借りる必要があったからだ。しかし、映画ではあくまで女性たちが女性たちの声で話すことができる。彼女たちの中には、オーガスタが何か意見を言うことを許さないものもいた。「あなたはここではただ記録をとっていればいい」「男の意見は求めていない!」と。
映画では十分に語られていないが、実際に起きた事件において、男性たちは加害者を罰したものの、その理由はあくまで自分たちの財産が侵害された、という文脈でのことであった。だからこそ、女性たちはカウンセリングを受けることもできなかった。「意識がなかったのだから、ケアする必要もない」という論理が罷り通ったのだ。男性たちは男性たちの論理によって女性たちを取り扱っている。だからこそ、本作では、女性たちが、女性たちのことを、女性たちのために語ることができるようなセッティングがなされたのだ。
本題:何もしないこと、戦うこと、逃げること、離れること、そして赦すこと
個人としての女性、コミュニティとしての女性
はじめに、本作は会話劇であり、コミュニティ全体の意思決定を行う場面であったにも関わらず、私にとってはひとりの女性が悩み苦しむ様子の、その内面世界を描いているようにも感じられた。
作中では複数の「声」が鳴り響き、時に不協和音として、時に調和のとれた形で、それぞれの意見が重なり合う。ある声は「ここでやっていくしかない。今更ことを荒げても仕方ないじゃない」と諦めた様子で言い、ある声は「絶対に許さない。決してなかったことにはしない」と怒りに震え、ある声は「でも、暴力に暴力で争ったら結局同類になってしまう、それでいいのか…?」と悩み、ある声は「じゃあ赦すべきなのか…赦せるのか…赦すのか?」と問い直す。
このような心の声が、自分の中に同時に現れ、心が引き裂かれるような思いがして、体が動かなくなってしまうような経験をしたことがある人は少なくないのではないだろうか。自分が何を望んでいるのか、そのためにどうしたらいいのか、そんな事柄がわからなくなって、自分という存在が不確かで、他者や異物のようにすら感じられる時がある。
このような視点で本作を見てみると、紛れもなく女性というコミュニティを主語とした物語でありながら、同時に、個人としての女性の内的な葛藤を表現しているようにも思える。それは私がモラハラ・DV加害者に関わる活動をする中で、被害者の方々の声を聞くことが多いからかもしれない。
彼女たちの中にはこのように述べる方もいる。「赦せるものなら赦したい。けれども、赦すことができない。一緒にいると苦しく、考えるだけで吐き気がする。赦すことができないということに、被害者が苦しんでいることもあることを、知って欲しい。赦したくないという人ももちろんいるけれど、私の場合は、赦したくても、それができなくて、辛いのだ……」と。
人は学び変われるのかもしれない。加害者も変われるのかもしれない。しかし、そうであっても、何もなかったことには決してならない。実際に傷ついた心や体が、頭で考えていることに従わない。論理をどんなに積み重ねても、感情や感覚は言うことを聞かない。そんな話を伺うとき、理屈や論理、あるいはデータといったものがいかに無力かを思い知る。論理それ自体は結局のところ、人の生身の生を支えることはできないのかもしれない。
赦したいと願う人にとってさえ加害者という存在はこれほどに重く、苦しい。ましてや、赦したくないと思う多くの被害者にとっては、どれほどの恐怖、怒り、憎しみの対象だろうか。私は加害者変容を共に目指す場を作りながらも、このことを決して忘れてはならないと思う。恐怖や怒り、憎しみの対象でも、それでも変わることを信じて活動することが、誰かを深く傷つけることを自覚しながら、活動に取り組む必要がある。
集団のことでありながらも、個人のこととしても捉えてみると、3つの選択肢「何もしない」「留まって、戦う」「離れる」という選択肢が、少し違って見えてくる。すなわち、脅威や危険に対しての3F反応と呼ばれる「Freeze(凍結)」「Flight(逃走)」「Fight(闘争)」である。
危険な状況になったときに、死んだふりをしたり、何も感じないような状況になることによって自分を守る「Freeze(凍結)」、そしてその危機的な状況から本能的に逃げようとする「Flight(逃走)」、そしてその危険に立ち向かって戦う「Fight(闘争)」で構成される3Fと、本作で検討される3つの選択肢はとても似ている。
しかし、似ているけれども言葉は違う。Fightこそ同じだが、「Freeze(凍結)」ではなく「do nothing(何もしない)」だし、「Flight(逃走)」ではなく「Leave(去る/離れる)」である。更に「do nothing」については「赦す(forgive)」あるいは「許す(permit)」とも劇中では表現が変わる。一体これらの言葉が意味することはなんなのだろうか? それは話し合いの中で、なぜ、どのように変わっていったのか?
個人としてもコミュニティとしても、男性による暴力(構造)に対して、どのように反応するのか、対応するのかについて、本作はさまざまな声を並べながら、ある結末へと導いていく。本記事ではそれを丁寧に見ていきたい。
何もしないこと(do nothing)あるいは許す(permit)ことについて
本作では、まず初めに「何もしないこと(do nothing)」があり得ないこととして棄却されるが、スカーフェイス・ヤンツと、マリチェはこれに支持的であった。
(画像は公式サイトより、以下同じ)
スカーフェイス・ヤンツの論理はシンプルである。彼女たちの教義である「赦し(forgiveness)」を考えれば、このような痛みも大いなる赦しによって応じるべきであるし、そうしなければ天国が遠のくと考えるのだ。戦うことも去ることも、死後の安寧を遠ざけるという点において、彼女は賛成することができない。
しかし、この意見は痛烈に批判される。そもそも本当に神様がいるなら、なぜ女たちはこんな目に遭うのか。なぜ男性たちに罰が下されないのか、とサロメは強烈な怒りを示す。
そして自分たちへの暴力への報復はもちろん、何より子供達の安全のためにも、徹底的に戦うべきだと主張する。そのために地獄に落ちても良い、とさえ言ってのける。そもそも何もしないというなら、この対話の場から立ち去ればいい、という主張を受け、スカーフェイス・ヤンツとその一族は話し合いの場から去る。
マリチェは異なる意見を述べる。彼女は深く諦観している。「でも、結局戦って勝てるの?」と。「これまでだって同じようなことはずっとあった。今更怒ったところでどうなるのか。どうせ勝てっこないのだし、ここを離れることも恐ろしい。だって女たちは地図も持っていないし、読み書きもできない。どうせうまくいかない」と、戦うことも、去ることも、否定する。
スカーフェイス・ヤンツが「何もしない(do nothing)」を積極的に「赦す(forgive)」と位置付けるのに対して、マリチェにとってそれは消極的な選択なのだ。後述するように、マリチェの夫はDV加害者であり、酒を飲んで暴れるような男だ。そのような境遇が、この無力感、諦観を引き出している。また地図や読み書きといった、世界に関する知識が剥奪されていることが、人を隷従の状態に繋ぎ止めることを本作は痛烈に批判する(実際の集落では読み書きのできる女性もいるのではないかと予想する記事もあったが、詳細は不明)。
しかし「私たちは言葉を持った」「私たちは賢くなった」だから、これまでと違う行動をとることができるのだ、と反論される。そして去ることも戦うことも恐ろしいとして「じゃあ何もしないのか?」「子供たちがどうなっても良いのか?」と問われれば、やはりそれを看過することはできない。
本作でも言及されるように「forgive(赦す)」ことと「permit(許可する)」ことは、よく誤用され、誤解されるのだ。結局のところ、ここでなにもしなければ、それはいま現に起きている被害を、加害を、許可する(permit)ことを意味する。それは暴力を生み出した男性社会、そしてそれを追認する長老たちの家父長的な権力を、これまで通り、受け入れることだ。それを、彼女たちは選ばない。
戦うことも去ることも恐ろしいけれども「何もしない(do nothing)」ことは「赦し(forgive)」ではなく「許し(permit)」になってしまう。これは恐ろしいことだと思う。戦うことも去ることも、本当ならばしたくない。戦うことは傷つくことだし、去ることは家族や愛着のある土地、住み慣れた家を手放すことだ。それはどんなに悲しいことだろうか。この世界が、現実が不条理であるがために、こんな選択肢の中から選ばざるを得ない。それは「選んだ」のか「選ばされた」のか、どんなふうに考えることができるだろうか。
彼女たちは何度も「子どもたちにこれを引き継ぐのか」と言って勇気を奮い立たせる。それはまるで、DVの被害を受けている女性が、自分自身の被害であるうちは我慢するものの(それが良いことだとは口が裂けても言えないが)、子供達に被害、あるいは加害者としての連鎖が起きていることを実感した時に、別居や離婚に踏み切ることができる様子にもオーバーラップする。
このような話し合いの中で、彼女たちは「留まって戦う(Stay and Fight)」か「去る(Leave)」について特に議論を深めていくこととなる。
留まり、戦うこと(Stay and Fight)
とにかく徹底的に戦うという意見に対しても、さまざまな議論が行われていく。まず1つは先述した通り「実際のところ、勝てるのか?」という問いである。現実的に考えれば、厳しいと言わざるを得ない。それはそれを強く主張するサロメにだってわかっているはずだ。しかし、逃げるのも認め難い。だって悪いのは男性側であって、女性側ではないのだから。
そこでオーナが「単に破壊のために戦うのだと思われないように、自分たちの望みをきちんとステートメントとして伝える必要があるのではないか」と提案する。曰く「今後のコミュニティの意思決定に女性も加わるようにすること」や「女子にも教育を与え、識字率などを向上させること」などがそれには含まれる必要があると言う。
問題の構造を認識し、そのためのラディカルな提案を行うオーナ。しかし、それが突っぱねられたらどうするかと問われれば「殺す」と答える。オーナの提案は民主主義的だが、同時に激烈だ。
このような「要求」を伴う意見にはもう1つ「出ていってもらう」というものもアイデアとして提出されるが、これが女性たちの大笑いを生む。これまで「塩を取ってとお願いしたことも、産後の辛い時に背中を撫でてともお願いしたこともなかったのに、最初で最後のお願いが出ていってだなんて…」と。劇中では「時に人は泣きたい時にこそ笑うのだ」と語られる。
あまりのリアリティの無さが面白いと言うこともあるだろうし、それくらい、女性たちの声はまるで聞かれることもなかったし、聞いてもらえると言う実感もまったくない、その通じさなの積み重ねがあることの、その哀しみを笑ったのではないかと思う。それはとても哀しい笑いでありながら、自分たちが置かれた環境を改めて実感することでもあったのではないか。
つまり「お願いなんかしても、通るわけがない」ということだ。争っても勝ち目はないし、争いの目的を明確にして要求を提示したところで、それが通るわけもない。そんな、抑圧構造に心底気づいて、泣く代わりに、笑い飛ばす。そこにはある種の軽やかさ、すっきりした様子さえ、見られるように思った。
加害者から避難するDV被害者の方々の声を聞く中で、こういった論理をよく聞く。すなわち「普段から、ちょっとしたことの中で、話し合いをして、一緒に考えて、一緒に生きていけるような結論に至ることができない。話し合いをしようとしたり、相談しようとしたりしても、拒絶されたり、馬鹿にされたり、攻撃されたりする。そんな人と、別れるかどうかの話し合いなんて、できるわけがないんです」と。
これはまさに劇中の状況とパラレルだ。大事な話し合いをするためには、その前に、日常のちょっとした事柄での話し合いによる、信頼の蓄積が必要なのだ。どうして小さなことで妥協できない人が、より大きな不利益を被るであろう話し合いで妥協しうると思うことができるだろうか。それはあまりにも分の悪すぎる賭けだ。
また、より根本的な問題として、戦うということは、自分たちも暴力を振るうことであり、それは教義に反するという意見も提示される。暴力に暴力で応じてはならない。それは赦しとは最も遠い立場なのだ、と最年長のアガタやグレタが諭す。
サロメは「でも、ここに残ったら、私は相手を殺してしまうだろう」と言う。そしてそれに対して、彼女たちは「そんなことをするべきではない」とか「そんなことをしてはならない」とは言わない。本作の中でも重要な場面の1つがここで描かれる。
彼女たちは「あなたを殺人者にしないために、私たちはここを離れましょう」と決意するのだ。被害者が、次の加害者にならないために、離れる/去る。それは、逃げることとは違うという主張が提示される。
逃げること(Fleet)と離れること(Leave)
本作では繰り返し、戦わずに離れることを「逃げること」だという表現がなされる。そして同時に「いや、それは逃げることとは違う」という異なる声も提示される。この2つの言葉には一体どんな違う意味が付与されているのだろうか。
コミュニティを立ち去ることは、女性たちにとって決して気軽に取れる選択肢ではない。外には何があるかわからないし、危険だ。そんな意見に対して「今の私たちは安全なの?」と問い直される。「家畜や動物以下よ」と。安心できるはずの家の中で、コミュニティの中で、家畜用の麻酔スプレーで眠らされて被害を受けていたのだから、そう言うのは自然なことだ。
自分たちがいる場所が安全ではない、ということを認めることはどんなに怖いことだろうか。家、コミュニティ、そんな自分の土台になるはずの場所において、本質的には、自分たちを道具や財産とみなし、尊重すべき人格がないものとして取り扱われることが、どれほど恐ろしいことか。それは、地図も持たず、文字も読めない女性たちが外に出ることよりも恐ろしいことなのだ。本作ではそのように主張される。
作中ではオーガスタの口を借りて、以下のような言葉の違いも示される。曰く「離れることは、新しい視点で物事を見られるようになることだ」と。逃げることは恐怖から始まるが、離れることはそうではなく主体性や意志を伴う、と言い換えることもできるかもしれない。
対話が深まる中で、不穏な空気が流れる。マリチェの夫が、加害者たちの保釈金が足りないので家畜を売るためコミュニティに戻ってきたことが判明する(しかし彼の存在が劇中で描かれることはない。DV男性であることを説明するようなビジュアル表現はなされず、マリチェの被害のシーン自体も描かれない)。
彼はDV加害者であり、これまで何度もマリチェやその子らは暴力を振るわれていた。いまのような話し合いが行われていることが男性たちにバレるわけにはいかない。対話は緊急性を高めていく。
ここで、劇中でも極めて重要なシーンが連続する。1つは、オーナが「これまで守れてこなかったあなたが、これからは子どもを守れるの?」とマリチェに指摘するシーンだ。これはDVの問題でもよく生じる状況である。
すなわち「母親であるあなたは、暴力を振るう父親から子どもを守るべきだ。どうしてもっと早くそうしないのか? そうしないなら、結局あなたも暴力に加担する、加害者側なのだ!」という糾弾だ。
その非難は、DV被害者である女性を深く傷つける言葉になる。そしてそうであるからこそ、マリチェは激昂する。「家族を持ったこともない女が、私をジャッジするのか!」と。そして「私に選択肢があったと言うのか!」と。
マリチェは、オーナが言っていることはもちろん理解している。自分が、自分の作ったこの家族が、自分自身を、そして子どもたちを傷つけていることを。しかし、仕方ないのだ。他に選択肢が無かった。
ここで、本作において非常に重要なシーンが描かれる。マリチェの母である、最年長のグレタがマリチェに謝罪するのだ。
彼女は、マリチェに赦しを強要してきたことを謝る。あなたに選択肢はなかった。赦しが大事だと言って、あなたが傷つき続ける環境を放置してしまった。赦し(forgiveness)ではなく、暴力の許可(permission)を、マリチェの夫に与えてしまっていたと、自分自身の責任として認める。
あなたのせいじゃない。あなたに選択肢はなかった。「男たちが、男らしさを学習したのと同様に、あなたに、従順な良い子(good student)を求めてしまっていた」と。
なぜこのシーンが重要なのか。それは、グレタ自身もまたこの暴力の構造の被害者であることは疑い得ないからだ。彼女は劇中、入れ歯を着けたり外したりする。「私の口には少し大きすぎるの…」と。
短く挿入される回想シーンでは、彼女が口から血を流すシーンがある。彼女もまた、暴力の被害を受けていたことが示唆される(作品の背景となった実話では、正式な裁判資料では、被害者として8歳から60歳までの女性の名前が記載されたそうだ:Front-rowの記事より)。
彼女もまた被害者なのだ。それでも、そうであったとしても、彼女が、結果として娘に赦しを強要してきた事実は変わらない。それは加害の構造への加担なのだ。そしてそれを認めることは、どれほど難しいことだろうか。だからこそ、このシーンは重要だ。
「私も被害者なのだから」「私にも選択肢がなかった」
と言うことは容易い。それは事実でもある。そしてそれを、娘であるマリチェもわかっているはずだ。それでもなお、グレタはマリチェに謝罪する。世代を超え、自分の痛みを超えて、娘に、そしてこれからの世代にそれを受け継がせることのないように、勇気ある謝罪を行ったことの意義は大きい。
糾弾したオーナも謝る。あなたはこれ以上傷つくべきじゃない(should not)し、傷つけられる謂れはない(deserve not)と。単にこの場をごまかすためじゃなく、心の底からごめんなさい、と。
マリチェが最初から戦うことも去ることも選ばなかったのはなぜか。DVを受けながらも、なぜ彼女は出ていくと言う選択肢を取らなかったのか。そして冒頭から「今までだってこういうことは続いていた。なんで今更?」と口にしてきたか。
それは、離れることや戦うことが、これまでの自分を否定することだったからではないか。
他の選択肢もあると知った瞬間、これまで必死に耐えてきたことが、無駄だったり、馬鹿らしいことであったり、なんならば子供にとって悪影響でさえあったと言われているも同然だ、と思ったのではないだろうか。
どれほど受け入れ難いことだろうか。そうやって耐えることが美徳だったのだ。親にも求められ、コミュニティにも赦しという美徳として認められてきたことだったじゃないか。他に仕様がなかったし、それがよかったのではないかと、マリチェからすれば、複雑な心境だったはずだ。今回の連続レイプ事件がある前から、暴力は常に彼女を取り囲んでいたのだし、周りはそれに手を差し伸べたりしなかったのだから。
「逃げるなら、もっと早く逃げるべきだった!! なぜ今更!!」
そんな言葉が、マリチェの頭には響き渡っていたのではないだろうか。それは強烈な非難として、責めとして、マリチェを苦しめていたはずだ。そしてその声は、マリチェ自身が発していたのだった。
だからこそ、今回の連続レイプ事件のショックから喫煙を始めたり、過呼吸に苦しんだりする妹のメジャルを非難する。苦しいのはお前だけじゃないのに、周りの注意を引こうとしてアピールしているんでしょう、と。
だから、「あなたは悪くない」という言葉が、深く傷つけられてきて、被害について諦観を持たざるを得なかったマリチェに、離れると言う選択肢を主体的に選ぶための、大事なきっかけになるのだ。
選択肢はなかった。でも、これからは違う。選択肢を作っていける。選ぶことができる。そう信じるに足るために、彼女には、彼女の罪(とマリチェが感じていたであろう事柄)が赦される必要があった。
これはDV問題に例え直すまでもないけれど、どんなときからでも、被害者は、自分や、自分の子どもを守るために行動していいということ。遅すぎるということは決してないのだということが非常に明確なメッセージとして本作は述べている。
(ただし、この赦しを、直接被害を被った子どもから求めようとすることは、新たな加害になるだろうことを付言する)
離れること(Leave)と赦すこと(Forgive)
いよいよ本記事も最終節まできた。「何もしないこと=許すこと」「留まり、戦うこと」「逃げることと離れること」と来て、最後が「離れることと赦すこと」についてだ。
元々、何もしないことが「赦し」だと作中では述べられてきたが、それは対話の中で否定された。何もしないことはpermission、すなわち許可を与えることだと。暴力的な構造にいるとき、許可を与えることは、次の世代に暴力を受け継がせることになるということ。だから、許してはいけない。でも許しと赦しは勘違いされやすいとも言う。では、本作における赦しとはなんだったのだろうか。
当初、「逃げること」とも表現されていた「離れること」の意味がここでついにはっきりと輪郭を掴むことができる。すなわち「離れることこそが、赦すこと(に繋がりうる、唯一の道)」だという本作のメッセージである。
「共に暮らせば男達と憎しみ合う事しかできない私達だが、離れて暮らせば視点も変わる。新しい視点から心から男性を赦す事ができる日が訪れるかも知れない。それに希望を託したい」
と、作中でもセリフがある。ここで大事なことは「赦すことに繋がりうる」のであって、即座に赦すことではないし、「強制された赦しは、赦しではない」というメッセージもセットであることだ。誰も赦しを強制されてはならない。
さらに大事なことは、彼女たちが男性たちを変えるための具体的なアクションには関わらないこと。この連綿と続く加害の連鎖、システムから、彼女たちは離脱する。そのショックを受けて男性たちが変わるかどうかは、彼女たちの預かり知るところではない。男性たちの変容を支援する義務も責任も彼女たちは有さない。
おそらく男たちは、彼女たちが出ていくことを「生意気で」「反抗的で」「とうてい許可できないこと」だと考えるだろう。被害を受けたと思うかもしれない。連れ戻そうともするだろう。
その気持ちを引き受けるのが、男性であるオーガスタなのだ。彼は議事録係としてそこにいる。女性たちの意思決定を見届ける。オータと相思相愛であるが、彼は彼女たちを引き止めない。引き止めることはできない。それは悲しい恋の結末でありながら、愛する女性の意思決定を尊重しようとする最も明白な愛情表現でもある。
そんな彼には2つの役割がある。1つは男性たちに、女性たちの意思決定やそのプロセスを伝え、女性たちを連れ戻すような動きを止めることだ。彼は女性たちの意見を変えない。男性たちや、自分にとって、都合の良い方に誘導もしない。
彼の役割は、男性たちに、男性たちが何をすべきかについて伝えることだ。彼もまた無傷ではない。愛すべき人を失いながら、それでもその役割を担う。
そしてもう1つは少年たちの教育である。子どもたちはまだ変わる可能性がある。どんな文化の中で、どんな教育を受けて育つのかによって、人は変わりうる。オーガスタは教師として、彼らに新しい男性像を伝えていく役割も持つだろう。彼はこの加害と被害の構造の犠牲者でもあり、その変革者にもなり得る存在なのだ。
改めて、赦しということについてまとめよう。本作は赦しを、以下のように示している。
まず、赦すとは何もせず、全てを受け入れることでは決してない。それは暴力の構造がある時、その追認になり、新たな被害者を生むことの許可になる。一方で、攻撃して傷つけ合い、殺し合うような関係にもならない。それは自らを加害者にしてしまうことだし、殺してしまえば学びの機会を得ることもできない。しかし、一緒にいたら憎しみのあまり殺してしまう。だから、離れる。離れた後の学びの機会を提供したりはしない。それは、加害者たちが自分たちの中でやるべきことなのだ。このような意思決定を、本作では「赦し」として提示している。
当初3つの選択肢(何もしない、戦う、離れる)があり、そこでは「逃げる」と「離れる」「赦し」と「許し」のように表現のブレがあった。それが対話の果てに整理され「離れることこそが赦しへの道である」と結論づけられていった。
本作は「あなたの物語はきっと違うはず」というセリフで締めくくられる。ここで違うといいうのはいくつかの意味があるだろう。
1つはまさに上述の通り「逃げると離れる」「許すと赦す」といった観念が変わっていくだろうということ。まさに今回の事例での勇気ある「離れる」という選択肢をとったことそれ自体が、この変化を生み出しているだろう。
そしてもう1つは「これが唯一無二、絶対の正解ではない」ということの示唆だ。きっとまた状況が変わり、文化や歴史が違えば、異なる選択肢が取れるようになっているはずだ、というある種のポジティブな未来予想が表現されているのではないだろうか。
ただし、本作は最後にわずかな不穏の火種を残す。それは女性たちについてくるように説得しようとした息子がコミュニティに残ることを選んだため、まさに性暴力で用いられた麻酔薬を使って、息子の意識を奪って無理矢理連れていくことにしたサロメの選択である。その判断は、身体の自由を奪い、意志に反して、自分の思い通りに他者を操作することに他ならない。それは、加害者たちがやっていることと地続きだ。
母親であることは、子どものためと思って行う暴力の免罪符にはならない。
サロメが選んだ行為が明らかに暴力であることは劇中の表現からも明らかだ。誰よりもサロメ自身がそれを自覚している。母親の子への有形無形の暴力について、最近「毒親」「マルトリートメント」という言葉で広く知られつつある。
その暴力は真綿で首を絞めるような形態を取る。「あなたのため」「子どもだからわからないの」「お母さんの言うことを聞いていれば大丈夫」「どうしてわかってくれないの?」と、子どもの主体性を蔑ろにして、罪悪感によって支配する。今回はそれが最も露悪的な形で表現された。オーガスタは介入しなかったが、暴力の連鎖を止めるという意味では、片手落ちだったのかもしれない。
しかし、いったい誰が「本人が望むならここに残るほうが良い」と断言できるだろうか。そう断言できるほど、男性たちのコミュニティへの信頼を持てる人は、あの場にはいなかった。
暴力の構造はいきなり0になったりはしない。それは歴史に組み込まれ、関わる人々の身体に刻み込まれている。そこから抜け出すにあたって完璧な選択肢は与えられず、最終的な結論など誰もわからない、不完全情報ゲームの中で、私たちは意思決定せざるを得ない。
サロメの意思決定が、どのような帰結を生み出すのかはわからない。彼女に選択肢はあったのだろうか。誰がサロメの暴力性を責めることができるだろうか。
1つだけわかることがある。それは、サロメの息子がいつかサロメを憎む時、サロメはそれを引き受ける必要があることだ。その正しさを息子に押し付けることはできない。独善の暴力を認め、それでもなお、息子にとって良い生になるようにと祈り、願いながら生きていくしかないのだ。
サロメの苦悩を、息子にわかってもらうことはできない。しかし、サロメの苦悩を、周りの女性たちは共感的に受け止めることができるかもしれない。そうして人は自分の罪と共に生きていくことができるはずだ。
男性たちもまた、自分たちの加害を、暴力を振り返って苦悩し、後悔し、痛むだろう。「もっとこうしていれば」「なぜあんなことを」と。その痛みもまた真実である。オーガスタがその痛みを分かち合う場を作り、ケアしあえるような関係を作っていけると信じたい。
終わりに
本作を見て、自分はオーガスタにはなれない、ということを思い知らされる。オーガスタは暴力を振るっていない。彼は間違いを犯した後に学び直した、あるいは、学び直そうとしている人間ではない。彼は暴力を振るっていない。その構造の中での利益も得てこなかった。だからこそ、あの場で、女性たちの声を聞き、残す役割が与えられた。
自分はモラハラ・DV加害者である(いま、パートナーとは幸せに暮らしているけれど)。自分の存在自体が、ある人々からすれば、決して拭い去ることのできない暴力性のラベルを持っている(オーガスタの男性というラベルにそれを見出す人もいるだろうけれど)。だから、オーガスタにはなれない。
オーガスタにはなれないけれど、きっと、彼と共に学んでいく男性たち(これは比喩だ。GADHAは女性比率が25%あり、DVの問題をジェンダーだけの問題とは捉えていない。ただしジェンダーの影響はあり、無いものとは考えない)のコミュニティ、学びの場なら作っていけると思う。
GADHAには、別居や離婚など、関係の危機によって集まった人がたくさんいる。そこで、関係の終了をされたことを憎み、恨み、間違っていると考えてしまいそうになるときがたくさんある。本作で言えば、離れることを選んだ女性たちを追いかけようとする男性たちもいるだろう。
そんなことは許さない、誇りが傷つけられた、連れ戻してやる、と。
オーガスタのことを、ここでももう一度参考にすることができるだろう。彼は、オータのことを愛しているからこそ、彼女を引き止めなかった。愛しているからこそ、彼女の去るという選択肢を尊重した。愛する人が何を感じ、何を大切にし、どのように生きようとしているのかを知ろうとし、そのプロセス自体に介入せず、支えた。
GADHAはオーガスタのように、被害者たちの意思決定の場に入っていくことはできない。しかし、オーガスタのように被害者の意思を尊重することができる加害者を増やすことはできるはずだ。そう信じて、このエッセイの締めくくりとしたい。