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はじめに
GADHAはこれから「加害者が変容するにはどうしたらよいのか」を提示する10のステップを示していきます。
人間とはなにか、幸福とはなにか。愛すること、配慮すること、ケアするとはどういうことか。暴力とは、加害とは、責任とは何か。
今後、何度も書き直していくことになると思いますが、ひとまず理論全体のラフスケッチを始めていきます。
今回は、「人間とは、解釈する存在である。」という話をしていきます。
解釈する人間
人間は、「解釈する存在」です。何か事実とか、真実を認識しているのではなく、あくまで解釈しないと現象を捉えることができません。
そのため、同じ現象があっても、人によってその解釈は変わります。というか、ある現象を現象として認識している時点で、それを解釈しているのです。
例えば、ある人が捨て猫に餌をやるとします。別の人がそれをみて「なんて優しい人なんだ」と思い、他の人は「無責任な人だなあ、飼えるわけでもないのに」と解釈します。もしかしたら本人は猫が嫌いで毒の入った餌で殺そうとしているのかもしれません。
後からニュースでそれを知った人たちは「恐ろしい人間だ」と思うでしょう。でも中には「おおっ、おれも猫が嫌いだからこいつとはいい酒が飲めそうだ」という人もいそうです。
このように、私たちはこの世界を解釈しながら生きています。なにかそこで起きていることに意味付けせずにはいられない。
更には、その人たち同士が解釈を共有することもあるでしょう。「あれはひどいことだ」「いや、そんなことはない」など、他者の解釈を共有されて自分の解釈を変えるときもあれば、激しく対立することもあります。
ここで大事なことが2つあります。1つは、「世界はそれぞれの人によって、異なって解釈されうる」というある意味当たり前でありながら、重要なことです。
そしてもう1つは、「絶対の真実や正しさは存在せず、共有される解釈があるだけ」ということです。多くの人に共有される解釈が「常識」「普通」とされます。
解釈という言葉が硬すぎると感じる方は、感じ方や考え方、あるいは価値観というふうに置き換えてもある程度理解できると思います。
「解釈の独占」という暴力
これだけ聞いても、「一体、これがぼくたち加害者にとってどんな意味があるんだろう?」と首を傾げてしまう人も多いでしょう。
しかし、暴力とは本質的に「解釈の独占」だということができます。
DVは物理的な暴力を振るうかどうかを別として、「支配-服従の関係を作ること」だとされています。ここでいう「支配-服従の関係」とはどのようなことでしょうか。
それは「おれが望むように感じ考え行動せよ、おれが望まないように感じ考え行動するな」という関係です。そのような関係で、具体的に起きることはどのようなことでしょうか。
例えばあなたが「そんなくだらないことで、落ち込むな。家の空気が悪くなるだろう」というとき、何が起きているかを考えます。
ここでは、パートナーが落ち込んでいることを「くだらない」と解釈し、家の空気が「悪く」なるだろうと解釈しています。
しかし、真実としてそれは「くだらない」ことなのでしょうか。もっと言うと、現に落ち込んでいる人はそれを「くだらない」と思っているのでしょうか。
先ほど、「世界はそれぞれの人によって、異なって解釈されうる」と言いました。それが「くだらない」かどうかは、それを解釈する人によって違います。
パートナーはそれを「くだらない」と解釈していません。「落ち込むほどのこと」だと解釈しています。
「絶対の真実や正しさは存在せず、共有される解釈があるだけ」とも言いました。
あなたが何かを「くだらない」と解釈し、それを相手に強要し、そう解釈しないことを愚かだとか間違っていると考えるのだとしたら、それはあなたがこの世界を理解できていないということです。
もっと言うと、あなたが大切にしたいはずの最も重要な他者であるパートナーを間違って解釈しているということです。
パートナーの解釈自体に間違いはありえません。それは、その人の解釈(落ち込むほどのこと)として現に起きていることだからです。
あなたがパートナーの解釈する権利を独占する時、あなたは暴力を振るっています。
あなたがどう思おうと、「パートナーが、落ち込むほどのことだと解釈していること」は現に生じていることです。
にも関わらず「落ち込むようなことではない。お前が落ち込んでいるのは間違っている」というとき、あなたは解釈の独占という暴力を振るっているのです。
おそらく、あなたはあらゆる場面で解釈の独占を行っているでしょう。
たとえば「これはDV」だと言われれば「これはしつけだ」とする。
いつまでも相手が怒っていると、「しつこい」「いい加減水に流せ」という。
「どうしてこんなにひどいことをするの」と言われれば「常識」「普通」「当たり前」だという。
「あなたは私を責め続けている」と言われれば、「これは話し合いだ」と返す。
これらはすべて、解釈の独占です。
パートナーがあなたやあなたの言動をどう感じ、どう考えるのか。すなわち、あなたやあなたの言動をどう解釈するかは、パートナーだけが行うことです。
勝手にあなたが決められることではありません。
水に流せないほどの怒りや悲しみを抱えていることを、「しつこい(それほどのことじゃない)」というのは加害です、あなたがその怒りや悲しみを生んだ時にはなおさらです。
その人がされて現に「ひどい」と感じたことを、「常識」だとか「普通」だとかあなたや社会(とあなたが思っているだけで、他にもひどいと感じる人は必ずいる)の解釈で塗りつぶすのは加害です。
相手の解釈する権利の独占とは、相手が「痛い」と言っているのに「いや、痛くない」と言っているようなものです。「その人が痛いと感じていること」を誰が否定できるでしょうか。できるわけがありません。
あなたの大切なパートナーが何を感じ、どう考え、解釈しているのかを尊重せず、間違っていると断ずるとき、あなたは加害者になっているのです。
共同解釈という非暴力
「そんなこと言ったら、考えが違う人とはコミュニケーションできなくなるじゃないか」と考える人もいるかもしれません。
しかし、現実世界を考えてもそんなことはありえません。というか、あなたは上司に対して解釈の独占をしていないですよね。
だから、解釈の独占をしないコミュニケーションはありえます。どうすれば良いのでしょうか?
そこには、大きく2つのレベルがあります。1つ目は、「共有可能な解釈を目指して、共同解釈を行う」というレベルです。
もう1つは「たとえ共同解釈に失敗しても、不機嫌や怒りによる解釈の強要をしない」というレベルです。それぞれ述べていきます。
共同解釈とはなんでしょうか? それは、異なる解釈を持った人同士が、共有可能な解釈を目指す営み、コミュニケーションです。
先程の例で言うと「くだらないのか、そうでないのか」を一緒に考え、お互いが合意できるような解釈に辿り着こうとすることです。
ここで、すぐさま指摘すべきことがあります。これは決して「口喧嘩」「ディベート」「言い争い」などの「どっちが正しいか」という勝ち負けのつく勝負ではないということです。
解釈に「正しさ」はありません。納得でき、共有できる解釈があるだけです。
あなたはおそらく、僕と同じように共同解釈を勝負として捉え、なんとしても自分の解釈を相手に納得させようとする人でしょう。だからこそ加害者なのです。
そうではなく、共同解釈とは、「パートナーの解釈=パートナーの見え感じている世界はどのようなものなのか」を教えてもらい、その解釈を通して自分の解釈を捉え直そうとする営みです。
それは「自分の解釈を認めさせる」のではなく、「自分が共有可能な解釈を増やす、広げる試み」です。
私たちは異なる他者です。だから、ある現象を見ても違った解釈をします。それは当たり前のことです。
違った解釈をすること自体は、だれにも責められるものではありません。 問題なのは、違う解釈に触れた時、共同解釈に取り組めるかどうかです。
あなたが「くだらない」「当たり前だ」「責めてるんじゃなくて話し合いだ」と言ってしまったとき。つまり相手の解釈を拒否し、独占しようとするとき。
「でも、本当にくだらないなら、なぜこの人は悲しんだり怒ったりするんだろうか?」
「でも、本当に当たり前なら、なぜこの人はそう思わないんだろうか?」
「でも、本当に話し合いなら、なぜこの人は責められていると感じているんだろう?」
と、あなたとパートナーの解釈のズレをまっすぐに見つめてください。それが共同解釈の契機です。
その人が、そのように感じ考えていること=解釈は揺るぎない現実なのです。現実を見つめてください。
その「現実」から始めたとき、あなたは加害から一歩遠ざかることができます。
「くだらなくないのかもしれない」
「当たり前じゃないかもしれない」
「話し合いになってないのかもしれない」
そこから共同解釈が始まります。
そのとき、あなたは「自分の解釈を説明すること」ではなく、「パートナーの解釈を聞こうとすること」の意義に気づくでしょう。
あなたが説明している限り、パートナーの解釈を理解することは永遠にできません。それは理解できますよね?
パートナーが見え感じている世界を共有してもらおうとするとき、あなたは自分の解釈やそれを押し付けたい欲望を手放す必要があります。
論理の穴を見つけて矛盾をつこうとするのも無駄です。「そう感じ、考えていること=解釈」は現実なのです。
論理は現実の説明の方法にすぎません。 間違った論理が仮にありえても、間違った現実はありません。
相手の解釈に触れたとき、あなたの現実には新たな解釈可能性が生まれます。
「自分がくだらないと解釈していたことも、パートナーにとっては重要である」
「自分が話し合いだと解釈していたこの2時間は、パートナーにとってはただ責められていただけの時間である」
そう気づけた時、あなたは自分の話し方や行動を継続しますか?
あなたにとっての感じ方や考え方=解釈は変えられなくても、パートナーの解釈を尊重した時、あなたは違う言葉遣いや行動ができるのではないでしょうか。
少なくとも、その可能性にひらかれたとき、あなたは加害者から一歩遠ざかることができます。
「重要だと感じるなら、真剣に話を聞いてみよう」「責められていると感じるなら、違う話し方をしてみよう」
そう思えた時、あなたは相手の解釈する権利を独占するという加害をやめることができたのです。
おそらく、あなたはこういうコミュニケーション、すなわち共同解釈をしたことがほとんどないのではないでしょうか。
なぜなら、共同解釈をするには重要な前提があるからです。それは「自分の解釈が変わるかもしれないという態度を持つこと」です。
これには「自分は間違っているかもしれない」という前提がさらに必要になります。
さらにその前提には「パートナーは、自分と同じように感じ考え、自らの解釈を行うことのできる、対等な他者である」という価値観が必要です。
おそらく、加害者であるあなたは、これらの重要な前提を持っていません。そして、だからこそ次のレベルでも加害をします。
解釈を強要しないという非暴力
解釈の独占という暴力を振るわずにコミュニケーションをするには、2つのレベルがあると言いました。1つは上記のような共同解釈を行うこと。
そしてもう1つは「たとえ共同解釈に失敗しても、不機嫌や怒りによる解釈の強要をしない」というレベルです。
あなたはこれもできていないはずです。というか、そもそも「共同解釈」ができていない可能性のほうがはるかに高いのですが。
恥ずかしいことですが「頭がよく、論理的で、口喧嘩が強いオレ」と思っていた僕自身が、そのような人間でしたから、加害者の気持ちも十分想像できます。
そういう人間が共同解釈に失敗、すなわちパートナーと自分の折り合いをうまくつけられないとき、何をするでしょうか。
それは、不機嫌や怒りによる解釈の強要です。
「こんなこともわからないなんて愚かだ」
「バカだからわからないんだな」
- と、言葉で攻撃したり、
- 逆に長い期間無視をしたり
- 当て付けのようにお酒を大量に飲んだり
- 浮気を疑われる行動をとったり
- 壁を殴ったり
- ドアを大きな音を立てて閉じたり
- 物を投げたり
- 生活費を入れなかったり
- 家事をすっぽかしたりすることです。
あなたは、パートナーに「こんなことをされるくらいなら、この人の解釈を受け入れよう」と思わせるあらゆる行動を取っているはずです。
これは恐ろしいまでの、非常に暴力的な、加害です。相手の解釈する権利を独占することの、最も加害的な形式です。
もし悪意なくこれだけの暴力を振るっていて、あなたが「変わりたい」と願うなら、一番最初に知らなければならないのはこれです。
あなたはとんでもない暴力を、大切にしたい人に振るっています。あなたは、人を大切にできていません。傷つけ、尊厳を破壊しています。
あなたが大切にしているのはあなただけです。「あなたの解釈」を守っているだけです。「大切にしたい人の解釈」を尊重することが全くできていません。
詳細は次の記事に書きますが、パートナーの解釈を共有することが愛することであり、ケアすることであり、配慮することです。
あなたはパートナーの「この私」という解釈を、粉々に打ち砕き、人間の尊厳を蔑ろにし、最も大切な人に、最もしてはならない暴力を振るっているのです。
もしもあなたに少しでも自覚があるなら、ぜひ次のステップをご覧ください。
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終わりに
G.A.D.H.A(Gathering Against Doing Harm Again:ガドハ)は、大切にしたいはずのパートナーや仲間を傷つけたり、苦しめたりしてしまう「悪意のない加害者」が、人との関わりを学習するためのコミュニティサービスです。
オンライン当事者コミュニティ、加害者変容理論の発信、プログラムの提供などを行い、大切な人のために変わりたいと願う「悪意のない加害者」に変容のきっかけを提供し、ケアのある社会の実現を目的としています。