幸福と愛すること くつろげる関係をめざして

· steps

それは、DV、モラハラ加害者である僕から、意のない加害者であるあなたに伝えたい理論です。

人間とはなにか、幸福とはなにか。愛すること、配慮すること、ケアするとはどういうことか。暴力とは、加害とは、責任とは何か。

「大切な人を、もう傷つけたくない」と心から願う「悪意のない加害者」に向けて、僕自身も学びながら、言葉にしていく理論です。

今後、何度も書き直していくことになると思いますが、ひとまず理論全体のラフスケッチを始めていきます。

本記事の主題は「愛すること、ケアすること」とはどのようなことか、です。

本記事が応じる問い

もっと優しくしてと言われても、よくわからない。

人に関心を持ってと言われても、自分なりにやっているつもり…。

気遣うってどういうことなんだろう?

愛や優しさといった言葉は曖昧としていますが、多くの人間関係ではそれが求められています。

本記事では、その抽象的な定義から具体的な実践まで、お伝えします。

前提としての人間観

愛することとはどのようなことかを考えるためには、まず人間存在について考える必要があります。

解釈の独占と強要という加害をあなたは行っている」でも述べたように、そもそも人間は解釈する存在です。

よく言う話ですが、半分水が入ったコップを見て「半分しか入っていない」と考えるのか「半分も入っている」と考えるのかは、それを見る人の解釈に委ねられています。

これはわかりやすい例ですが、それでは「自分」という存在はどう解釈できるでしょう

ある人から見ると「優しい上司」であり、ある人から見ると「静かな隣人」であり、ある人から見ると「意地悪な兄」かもしれません。

そして自分が自分を解釈する時は、きっと違う解釈をするでしょう。

このように、人は解釈をする生き物であり、それは自分や他者などに対しても同様です。

人の不幸

そのような前提に立った時、人の苦しみの理由が見えてきます。それは「この私」という解釈を他者と共有できないことです。

自分という存在は、全ての解釈の前提にあります。自分がいるから世界を解釈できるし、もっと言うと世界の解釈が自分だとも言えるかもしれません。

そんな、世界の前提となる自分もまた、他者による解釈に常に晒されています。

人によって、自分のことをいろんな風に違って捉えます。それは「この私」の解釈とは異なることもよくあります。

それはとても恐ろしく、不安なことです。この世界を捉えている「この私」の解釈自体が、他者のさまざまな解釈によって揺らいでしまうからです。

これにはさまざまなバリエーションがあります。

例えば

  • らしくないねとか
  • このくらいできて当然だとか
  • なんでそんな風に感じるの?

といった言葉は、全て「この私」という解釈を揺らがせます。

なぜなら、「らしいかどうか」とは関係なく、私は現にそのような人間であるし、「当然かどうか」とは関係なく、自分にはできないわけだし、「なんで」と聞かれても、現にそう感じているからです。

これらはすべて「その人にとってのこの私」という解釈を、現に存在する「この私」という解釈に押しつけられていることによる苦しみです。

「この私」が世界を解釈しているわけですから、「この私」が不安定になると、世界も不安定になります。

自分の感じていること、考えていること、言動にも自信がなくなります。何かを感じたり考えたり行動することに不安が生まれます。

このままではいけない、今の自分は間違っていて、変わらなければならない。そう考えることはつまり、自己否定に他なりません。

この世界に安心して身を置くことができず、落ち着かない感じ、自分という存在を認められない苦しみが生まれます。

解釈の独占と強要という加害をあなたは行っているに書いた通り、他者をこのような状態にすることが加害です。

その人の「この私」という解釈を否定し、間違っているといい、「自分にとって都合の良いあなた」を押し付けること。それが加害です。

人の幸福

それでは、人の幸福とはどのようなことでしょうか。これまで書いてきたことの真逆が、幸福と考えることができます。

すなわち「この私」という解釈を誰かと共有することができ、世界が安定し、世界に根を下ろしたような安心感が持てることです。

具体的にはどのような状態でしょうか。それは、自分の感じ方や考え方、それに基づいた言動を、他の人の解釈を押しつけられることなく生きていられることです。

悲しいことがあった時に「それの何が悲しいんだっけ?」とか「それで悲しいと感じるのはおかしいんじゃない?」と言われることなく、悲しいと感じ、共有できること。

嬉しいことがあった時に「別に大したことじゃないんじゃない?」「ふーん」といった反応をされることなく、嬉しいと感じ、共有できること。

あるいは何か意思決定をしたとき「なんでそうするの?」「こうした方がいいんじゃない?」「馬鹿だなあ」と言われたりせず、その意思決定を尊重されること。

そういうことを通して、人は「この私」という解釈が誰かに共有されたと感じます。

なぜなら、悲しいや嬉しいといった感情や、自分の意思決定は、この私による世界の解釈そのものだからです。

「存在を肯定すること」というのは、その人の世界の捉え方=解釈=感じ方や考え方、言動を肯定することに他なりません。

ここで、「いや、相手が明らかに間違っていたらそれを伝えるのは当然のことだろう」という人もいるでしょう。言いたいことはたくさんありますが、ここでは一つに絞ります。

もちろん、解釈に反対することはできます。加害となるのは、それを受け入れられないときに解釈を強要することです。この差は決定的な違いです

ここで強要するというのは、相手が自分の思う通りに考えないと不機嫌になったり、怒ったり、傷ついたりすることで罪悪感を与えることです。

詳細は解釈の独占と強要という加害をあなたは行っている」をご覧ください。これを読んでいる加害者の方は、これを自覚する必要があります。

あなたは「良かれと思って」「当たり前を教えている」「相手が間違っているので正す/躾ける必要がある」と思っているかもしれませんが、それは間違いです。

なぜなら、それらはすべて「べき論」によって導出されたロジックですが、「べき論」は現実の目の前の人間と関わるときの根本原理にはならないからです。

それはあくまで「そのべき論が、あなたにとって都合が良いから、目の前の現象を解釈する際に採用している」だけでしょう。

つまり、あなたの解釈を他者に強要するときに(卑劣なことにそれが自分のニーズを満たすためであることを明言せずに)用いるのがべき論であり、解釈の強要なのです。

そうでない形でお願いをすることをアサーションとか、GADHA理論では共同解釈と呼びますが、ここでは一旦割愛します。

愛すること

ここまできて、ようやく本題である「愛すること」について語ることができます。愛することとはつまり、大切にしたい他者の「この私」という解釈を尊重することです。

解釈を尊重するということは、その人の感じ方や考え方、それに基づく言動に、自分の解釈を押しつけないということです。

自分の解釈に基づいて相手の感じ方や考え方、それに基づく言動を評価することを「ジャッジする」と呼ぶのなら、尊重することとは「ジャッジしないこと」と言い換えられるでしょう。

もっと日常語でいうならば「~すべき、~すべきでない」という「あなたの常識」に基づいて相手を判断し、それに従って行動するように強要しないということです。

更にいうならば「目の前のこの人」が感じたり考えたりすることは、現に生じているということを認めることです。

泣いている人や怒っている人に「泣くな」とか「そんなことで怒るな」というのは、解釈の強要であり、ジャッジであり、他者の「この私」という解釈への暴力的な介入です。

泣いているという現実、怒っているという現実がすでにそこにあることを認識・理解できていない(昔の僕のような)人がそういうことを言うのです。

その人は現実を理解できず、自分の解釈通りに世界が動いていないことにダダをこねているのです。現実と自分の解釈がずれている時に、現実の方を変えようとしているのです。

存在と変化の肯定

このような言い方をすると「では、人が変わるということについてはどう考えたら良いのか」と思う方もいるかもしれません。

他者を肯定するということは、他者の成長や変容を否定することなのではないかと思う人もいるでしょう。

結論を述べると、他者を肯定するということは「今と違うXXな私になりたい、この私」という解釈をも共有することです。

例えば「もっと料理上手になりたい、この私」ということもあるでしょう。それに「別にならなくてもいいんじゃない」とわざわざ言う必要はありません。

更には「もっと料理上手になりたいけれど、なかなか時間も取れないし、そういう自分にちょっとがっかりしている、この私」という解釈をも共有できるでしょう。

これに対して「そんなことでがっかりするな」「時間作ればいいじゃん」というのもジャッジです。「やりたいけど時間が取れないことってあるよね」はジャッジではありません。

ある人の「この私」という解釈を尊重するというのは、単にその人のスクリーンショットとしての現在だけを見たものではないのです。

ただしここで大事なことはその変化を望んでいるのは誰かということです。

その人自身が願うのなら「この私」の解釈の共有ですが、もしも料理上手になって欲しいのがあなたなのだとしたら、話は変わります。

その人の変化の方向性を、自分が望む方向に持っていこうとすることは、自分の解釈をその人に押し付けることです。いわゆる「期待」によるプレッシャーを相手に与える行為です。

詳細は別稿にしますが、これは「相手のニーズ」ではなく「自分のニーズ」です。相手をケアすることとは、相手のニーズを満たすこと。

相手が「変わりたい」方向性を支援することはあっても、自分が「変わって欲しい」方向性にねじ曲げながら、なお「あなたのためなんだ」ということほど恐ろしい暴力はありません。

つまり愛することとは、「いまのあなた」と「これからこうなりたい、といま思っているあなた」という、現在と未来(潜在可能性)の「この私」解釈を尊重することで、共有することなのです。

それにより、人はこの世界に根を下ろすことができ、安心することができます。それは存在と変化の肯定であり、人が人にできる最上のことと言えるでしょう。

愛し合うこと、くつろげる関係

存在と変化を肯定すること、その人の現在と未来(潜在可能性)を肯定すること、つまり愛すること(ほぼ同義語としてケアすること、配慮すること)が「人が人にできる最上のこと」だと言いました。

それでは、愛し合うこととはどういうことでしょうか。まさにこの言葉通り、お互いがお互いの存在と変化を肯定することが愛し合うことだと言えます。

そして、これは人が人と関係を結ぶ最大の理由だと思います。それが最も幸福に近づく方法だからです。

存在と変化を肯定されることが幸福だとしたら、その幸福の安定性を保つのはなんでしょうか。

それは「存在と変化を肯定してくれる人の、この私」という解釈が安定していることに他なりません。その人の解釈が不安定な人からの肯定というのは、結局のところ不安定だからです。

自分に自信のない人が「あなたは大丈夫」と伝えてくれてもあまり安心できない状態をイメージしてもらうとわかりやすいでしょうか。

では、その人の「この私」という解釈が安定するにはどうしたらよいのでしょう。答えは明快です。私が、その人の「この私」という解釈を肯定するのです。

お互いがお互いに解釈を共有・肯定することによって、結果的に相手からの肯定も安定するのです。

その人といると、自分が否定されたり攻撃されたり責められたりする感覚がない。安心してそこにいられる、世界に根を下ろした状態でいられる関係。

それこそが愛し合う関係であり、GADHA理論ではそれを「くつろげる関係」と呼んでいます。

くつろげる関係を持った時、世界は急激に安定します。自分という存在が安定するからです。

さまざまな人からさまざまに解釈されたとしても、「この私」という解釈を確かに共有してくれている人がいるからです。

自分がうまくいっている時にちょっと調子に乗ることも、悲しくて沈んでいることも、うじうじと悩んでしまうことも、から元気で頑張ろうとすることも、そういう「この私」という解釈を、他の解釈に上塗り・強要しようとしない人がいる。

そして、お互いにそれを願うことができる関係。

人間が解釈をしてしまう生物である以上、これに勝る安心・幸福は存在しないのではないでしょうか。

まとめ

人間は世界を、そして自分を解釈する生き物です。他者の「この私」解釈と、自分の「この私」解釈が異なる時、ひとは辛くなります。

とりわけ辛いのはそれを「強要」されることであり、それこそがDV・モラハラ加害者がしていることです。加害者は、「この私」という解釈を不安定にしているのです。

愛する、優しくする、配慮する、ケアするという言葉は曖昧に聞こえますが、GADHA理論ではその意味するところは明確です。

それは、相手の「この私」という解釈を、尊重・肯定・共有することです。

自分の解釈に当て嵌めて理解しようとしてそれに失敗したら相手が間違っていると考えたり、更には間違っているから自分の解釈に従えと強要することは加害です。

現に生じている感情や考えが間違っているということはあり得ません。それはあなたの解釈を相手に無理やり当てはめるからそうなっているのです。

相手の解釈の中では、相手の感情や考えがそのように生じることにはなんの問題も間違いも勘違いも誤解もありません。その解釈は、そのままで、その通り現実なのです。

そのような「この私」という解釈を受け止められた時、人は世界に根を下ろしたような安心を覚えます。それは幸福であり、「人が人にできる最上のこと」といえるでしょう。

それが愛することなのです。

愛し合うとは、それをお互いができることで、お互いの存在と解釈が安定し、傷つけられたり変えようとされない、脅かされない「くつろいだ関係」を持つことです。

これは、人間が解釈する生き物である限り、おそらく最上の幸福だと呼んで良いでしょう。

加害者であるあなたは、これができておらず、人を不幸にしています。ひいては、あなた自身をも幸福から遠ざけているでしょう。

GADHAの加害者変容理論に関心のある方は、ぜひこちらからご覧ください。

注意事項

これらの理論は、変わりたいと願う加害者に向けて書かれたものです。

被害者の方は、むしろこのような考え方をすれば応じてくれると信じて努力されてきたはずです。

そのような方が「まだまだ努力が足りないんだ…相手の加害性をも尊重しなくては…」と思うことは大きな苦痛を生みます。

あくまで加害者の加害はどんな理由があろうと加害であり、それをパートナーの方が受け入れたり変容を支援する義務は一切ないとGADHAは考えます。

この理論が、加害者が都合よく被害者をコントロールする(どうしてお前はこのように自分を尊重してくれないんだ)ために使われることを強く危惧しています。

加害性を尊重することはできません。加害・暴力をしないことは関係を作るための大前提のルールであり、それを守れない加害者はその責任を自ら引き受ける必要があります。

加害・暴力についてはこちらも参考にしてください。

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終わりに

G.A.D.H.A(Gathering Against Doing Harm Again:ガドハ)は、大切にしたいはずのパートナーや仲間を傷つけたり、苦しめたりしてしまう「悪意のない加害者」が、人との関わりを学習するためのコミュニティサービスです。

当事者コミュニティとイベントの運営加害者変容理論の発信トレーニングなどを行い、大切な人のために変わりたいと願う「悪意のない加害者」に変容のきっかけを提供し、ケアのある社会の実現を目的としています。

当事者コミュニティやトレーニングに関するお問い合わせはこちらから。

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