吉原・広岡『ケアリング研究へのいざない』書評

· books
broken image

はじめに

G.A.D.H.A.は「大切にしたい人に対して、傷つける意図はなく、大切にする方法がわからないために、加害的な言動を繰り返してしまう人」すなわち悪意のない加害者が、気遣いや配慮の関わりのできる人になるためのコミュニティサービスを目指しています。

そのために、中核となる理論が4つあります(詳細はこちらから)。1.認識論 2.幸福論 3.ケア論 4.変容論です。本書評では、G.A.D.H.A.の理論関心に基づいて、特に3.ケア論の文脈から本書を紹介していきます。

ケアとは何か

ケアとはなんでしょうか。日常では、配慮とか気遣いといった言葉がよく用いられます。悪意のない加害者の多くは、配慮や気遣いといった言葉が苦手で、それを求められることにも抵抗を感じると思います。曖昧としていて「結局どうしたらいいの??」と混乱してしまうからです。

でも改めて「ケアって、気遣いって何?」と聞かれると応えるのは簡単ではありません。それもそのはず。実は、ケアという概念が本格的に思想の対象として取り上げられたのはごく最近。1971年のメイヤロフ『ケアの本質(On Caring)』という本が始まりです。その影響は大きく、教育学・看護学・社会学・哲学などさまざまな領域に広がっていきます。

本書は、そのような広がりを持った「ケア」という言葉が示す内実について、領域を横断して明らかにしようと試みた本です。まずは、その結論からみてみましょう(ケアとケアリングは別概念ですが、ひとまず意識せずに書いていきます)。

7.〈ケアするとは、その人が成長すること、自己実現することを助けること〉〈「専心」がなくなれば、ケアは喪失する〉〈ケアは連続性を前提としている〉

具体的な場として「患者への思いやりを持った接し方」「教育現場」「年老いた親の介護」「夫婦関係の円満な維持」などが挙げられていますが、なんとなくイメージが湧くのではないでしょうか。 

すなわち、その人がその人らしくあろうとすることを心から応援すること。目の前にいる、他と替えの効かない「この人」と関わるという専心。さらに、その関係が簡単に終わるものでも手放せてしまうものでもなく、関わり続けていくのだという連続性。これらがこれらがケアを構成する要素だと本書は結論しています。

お互いを信頼できる深い関わりは、友情と同じように時間をかけて構築されていきます。お互いを信頼できるというのは「この人は私が私のありたいようになれることに、心を砕いてくれる人だ」という信頼です。

ケアリング概念がいま重視されている一番の理由は、人間存在の中核である「活きる意味」「生きがい」にケアリングが深く関わっているからです。ケアリングはこれまで思いやり、いわたり、愛、ケアといった言葉で表現されてきましたが、ケアリング能力は、「幸福」と直結しているのです。

28.「私と補充関係にある対象を見出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、"場の中にいる"ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである。」

場の中にいるということは29.「寄辺ない」現代社会において重要な意味があります。メイヤロフはこの安定性を「基本的確実性」と呼んでいます。世界に根を下ろした状態であり、私たちを開かれた存在として他者を受容することができるようにします。

詳細は別記事にまとめますが、この世界は解釈によって構成されており、確かなものはありません。「この私」さえ、人によって違った解釈がされます。であるからこそ、私が思う「この私」をわかろうとしてくれること、「この私」であることを応援してくれる人との関わりは、非常に強い安心感を生むのだと思います。

悪意のない加害者は、これと真逆の行動をしてしまいます。その人の想像の中の「その私」はまるで違う人間で、しかも「その私」でないことを責められ、「この私」を否定し修正しようとさえするのですから。 

「そんなことを気にするのは間違っている、そんなことで傷つくな、なんで親切をしてやったのに喜ばないんだ」といった批判をしてしまいます。

基本的確実性、僕はこれを「くつろぎ」とでも呼びたいと考えています。これがなければ、人はくつろげないのです。穏やかな気持ちで、伸び伸びと「この私」を愛することができない。悪意のない加害者といると、いつ「この私」を否定され、修正させられるかわかりません。それは自分の存在を揺るがす、恐ろしい状況です。

30.「私と補充関係にある対象によって必要とされている、という事実からくる帰属感を深く身に感じ取ると、その経験は私を根底から支えてくれるのである。」

こう考えてみると、悪意のない加害者との暮らしの中で、もっとも辛いのはこの帰属感の欠如ではないでしょうか。真の意味で必要とされていないことに気づいてしまうことが苦しい。必要とされるというのは、相手もまたケアを通した幸福を求め、「この私」の実現を支援しようとしてくれることです。

しかし、相手は実際のところ私を必要としていないように感じてしまう。道具のように機能を求められ、思い通りに動かないと加害されてしまう。とても「この私」を実現するために支援してくれているとは言えません。

そんな人の「この私」を実現したいとは思えないでしょう。相互の信頼がなくなってしまうのです。そうすると、自分の存在と世界の関わりは不安定になり、生きていることの苦しみと直面せざるを得ません。

改めて、ケアするとはどういうことなのでしょうか。ノディングズは以下のように述べます。

55.「ケアリングは法則や原理に頼らず、ケアされる人に耳を傾け、ニーズを探ることで、ケアされる人に認識されるようなケアを行うことで成立する人間関係」である

「こうしておけば喜ぶだろう」といった一般論ではなく、「この人はどんなことに喜ぶんだろう?」と考える。「自分が考える最強の優しさ」ではなく、「この人が優しくされたと感じられるような優しさ」を目指す。ケアはそういう「目の前の、この、たった一人のあなた」に着目することから始まります。