「話し合いとは、結局のところ、どちらかが折れるということですよね?」

 

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この記事はプログラム参加者などGADHA理論を学んだ人からの質問への回答となっています。基本となる考え方自体は、GADHA理論ページから学ぶか、GADHA加害者変容プログラムに参加することを通して学習ください。

Q.質問

共同解釈とは、お互いの意見が違っても尊重して受け止めることであると思います。でも、互いに違う意見を主張してどちらかを通す形になった場合、もう片方の意見は否定されたことにならないでしょうか? どちらかが折れる、ということですよね?

A.応答

共同解釈というのは、一言で言うなら「お互いの言葉の定義のすり合わせ」になります。

例えば、「幸せな家族とはどういうことだと思いますか?」とか、「理想の休日の過ごし方ってなに?」とか、「これまでの家族で一番の思い出になる日はいつ?」と問いかけられた時、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。

あなたが思い浮かべた答えと、他の人の思い浮かべた答えには大なり小なり違いがあるはずです。それは自然なことです。

なぜなら「幸せ」「家族」「理想」といった言葉の定義、内実というのは人によって違うからです。

また、「一番の思い出」というのも、同じ経験をしても同じように価値を感じるとも限りませんから、人によって違います。

ひとつの言葉であってもその定義・解釈というものは異なってきます。それぞれの人間が、ひとつひとつの言葉に独自の定義や解釈を持っているんです。

その、独自の異なる定義や解釈を持った人間同士が共に生きていこうとする時に必要になるのが共同解釈、「お互いの言葉の定義のすり合わせ」です。

様々な言葉に対して違う解釈を持つ者同士が共に存在しようとする訳ですから、そこには当然解釈のズレが存在しています。

お互いのどちらかが折れるような場面というのは具体的にどんな場面でしょうか。例えば「子どもを中学受験させるかどうか?(本人の意思が置いてけぼりに聞こえますが、それは別問題として)」とか「新しい車を買うかどうか?」といったことがあるでしょうか。

このような時、確かに「受験させるか否か」「買うか否か」という次元においては、どちらかの最初からの意見が実現しない、ということはあります。

しかし、大事なのはそのプロセスです。よく考えてみると、そもそも「受験させた方が良い/良くない」とか「車を買った方が良い/良くない」の背景には、最初に書いたような問いがあると思いませんか。

受験をすると「良い」のはなぜか? それは例えばいい大学に行って、高い給料の仕事について、お金を稼いでほしいからでしょうか。それとも「私立の方が治安が良さそう、子どもが怖い目にあってほしくない」といった理由からでしょうか。

車が欲しいのは「誰のため」でしょうか。「家族」なのか、「自分」なのか、どうでしょう。そして「家族にとって大きい車が欲しい」というとき、「家族でキャンプに行ったりしたい」と思っているとして、他の人は本当に「キャンプに行きたい」と思っているのでしょうか。

このように、ある意思決定を共同で行う場合には、そもそもその意思決定を良いとか悪いとか言うための前提となる「私たちの考え方/価値観」を一緒に検討していくプロセスが必要になります。

そして、「私の価値観」と「あなたの価値観」は絶対に違うのです。生きてきた経験が違うからです。そのズレを慈しみ、知りたいと願い、共に生きる上で良い選択はどんなものかを考えることが共同解釈の重要なポイントです。

そのズレを発見し、自分の解釈を伝え、相手の解釈を理解しようとする。必要に応じて「自分は何故そう解釈するのか」とか「相手は何故そう解釈するのか」という深掘りが必要な場面もたくさんあります。

この時重要になるのが、自分の解釈も相手の解釈も否定することなく尊重することです。解釈に正解も間違いも存在しませんし、存在したとしてもそれは重要ではないのです。

何故なら、大切なのは「自分と相手の間で共有できる定義・解釈をつくること」だからです。お互いが納得し合える定義や解釈を探す、作ることが目的なので、何が正しいかは、ここでは重要ではないんです。2人の間で納得できるものであれば、全く新しい定義を作ってしまっても良いんですね。

お互いの解釈が噛み合わない時というのはどうしてもあります。その時には自分と相手の価値観を共に尊重しながら、傷つけることなく理解を進める必要があります。

「自分はこういう理由でこういう風に思っているんだ」とか「あなたは何故そういう風に思うの?」とか掘り下げていくんですね。

そうして、「あ、そこのポイントなら自分も合意できる」とか「ここは中々意見が合わないね、どうしたらお互い納得できるかなぁ」という風に探っていきます。

自分が譲れるところは譲ることで、何か別の時には相手が譲れるところを譲ってくれたりという、譲歩の交換みたいなこともあったりします。

なので自分が譲れるラインを探したり、妥協点を探るといった方法もあると思います。

大事なポイントですが、共同解釈は「解釈一致」を意味しません。同じように考える必要はないのです。

「私はキャンプは好きじゃないけど、あなたは好き」ということを、共同で解釈することもできるのです。「キャンプがいいかどうか」について意見が一致しなくていい。

あらゆることの意見が全く一致しないならその関係は終了した方が良いです。が、何もかも一致しないといけないと思う必要はありません。

大事なのは、これを傷つけることなく進める必要がある、つまり情動調律=お互いの価値観を尊重することが必須な点です。

どっちが正しいか間違っているかとか考えるのではなく「自分達の価値観をすりあわせて、お互いがほどほどに納得できる私たちの解釈ってどんなものだろうか?」と考え、作っていくことが共同解釈なのです。

新しい車を買うことにするかもしれません。でも「相手は別にキャンプが好きじゃない」のかもしれなくて、その場合は「それでも自分の好みを優先してくれたこと」に感謝ができるわけです。

この感謝が生じるのは、相手の価値観を知ったからです。それを否定することなく、上書きすることなく、知った上で自分の価値観を優先してもらえたから感謝できるわけです。

同時に、感謝とは「ありがとうと言うこと」ではありません。感謝とは相手を尊重すること、情動調律することです。情動調律とは相手の感じ方や考え方を尊重することです。

つまり「尊重されっぱなし」はあり得ないということです。じゃあ車のことについては尊重してもらえたので、他のことでは自分が相手を尊重する、そういう相互関係が絶対に生じるということです。

その時「折れた/折れない」「勝った/負けた」「願いが叶った/我慢した」という世界から離れることができます。お互いが相手の価値観を尊重したいと願い、実際にそうしあう関係の中に、勝敗や正誤といった概念は必要なくなります。

ということで、情動調律ができない、つまり信頼関係が築けていない状態での共同解釈は不可能なんです。どちらが正しい/間違っているという世界で会話することになってしまうからです。

共同解釈はGADHAの実践の中でも最も高度な営みであり、このことについて考えるよりも、まずは自分・相手に対して情動調律ができるようになることが大切です。

情動調律の方が必要になる機会が遥かに多い上に、慣れないうちは極めて難しく、実際にできるようになってくれば、実は人間関係の問題と感じること自体が相当減るので、一にも二にも情動調律がまず最重要だと考えてもらえたらと思います。

さて、最後に質問に改めて回答します。

「共同解釈とは、お互いの意見が違っても尊重して受け止めることであると思います。でも、互いに違う意見を主張してどちらかを通す形になった場合、もう片方の意見は否定されたことにならないでしょうか? どちらかが折れる、ということですよね?」

意見のレベルで考えるのではなく、その奥にある価値観のレベルで合意可能なところを見つけようとすることが共同解釈です。また、その時に解釈一致が得られない場合にはどちらかが相手を尊重する選択を取ることができるし、それは相互に行われると言う信頼関係の中で行われます。

折れた/折れないという「どちらが損をするか/我慢するか」という地平に立っている間は共同解釈は難しいです。まずはとにかく情動調律を訓練し、自他のニーズを尊重することの暖かさ、喜びに触れることが重要です。

終わりに

この記事はプログラム参加者などGADHA理論を学んだ人からの質問への回答となっています。基本となる考え方自体は、GADHA理論ページから学ぶか、GADHA加害者変容プログラムに参加することを通して学習ください。

制作

GADHAは「変わりたいと願う加害者」による当事者団体です。自身の加害者変容並びに加害者の再生産を防止することを目的として、本記事はGADHAメンバーによる協力によって制作されています。

文字起こし:くろとうさん @ktkt_tsk 

執筆:さくらさん @sakura_kizu

責任:えいなか @EiNaka_GADHA

 

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